あらゆるものをあるがままにする教えとは?
煩悩やどんな思考が生じようともそれを無毒化し、知恵にもどし、虹の光に変容し、空間に帰す教えである。
煩悩には、執着、自尊心、嫉妬、無知、貪り、怒りがあるが、それは我々が転生輪廻する六道の神界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界に対応している。これは我々の心が生み出す境地であるといえよう。
煩悩が知恵に変わるとはどういうことだろう。
執着は、二元的見解に陥らないことであり、明知(リクパ)の境地にあることで克服できる。
自尊心は、我々が人間として存在する理由であり、すべての人々を尊重すべきだ。傲慢は変成しないことである。あらゆるものをあるがままに放任するのである。特効薬を必要としないのだ。
嫉妬は、自分の器を越えた行為であり、なにもかもも支配しようとしている。
無知は、原初の知恵と結びつくことで乗り越えられる。それが無分別の知恵であり、明知(リクパ)である。
貪りと怒りは、受容と拒絶による二足の判断によって生まれ、それが発展したときに貪りと怒りになる。
貪りは大楽の悟りとなり、
怒りは解脱に帰結する。怒りは光明に対応し、我々の報身の次元である自性清浄にある。
この清浄なる自性を汚さないことである。無知、貪り、怒りの三毒は、我々の清浄な自性を汚してしまう。思考ですら我々の自性を汚してしまうのだ。
ブッダの三身である法身・報身・化身は切り離すことができない三身一体をなしており、
法身は空に、
報身は光明に、
化身は慈悲のエネルギーに、
それぞれの次元として存在する。我々の存在は本質的には空間に存在する音・光・光線といった一種の放射エネルギー体として個別に顕現しているように見え、思考と意識を生み出す脈管・ルン・ティクレも宇宙と我々の存在を映し出しだしたものであるといえる。
無思考が生じる境地、なにが生じようと無思考が生じるのみ。そこに意識や煩悩や無知が潜む隙間はない。心を超えた心の本性、つまり、我々の法性を剥き出しにしてそれにふれ続ける。それがATOizmの序章である。