浄化を行うとするとき、密教的カテゴリーでは、概念の対象物を使ってより複雑なものや多様なものを使おうとすると、つまり、供物や物体化した本尊仏を対象に据えて、たとえ目をつぶって観想したとしても、到達すべき悟りのポイントともいえる心の本性に自らの意識を確立することは難しい。
護摩を焚いたり、あらゆる供養法を行ったところで、修行者は、心の本性に直接入ることはできない。まして心眼にロルパとして写った神仏を映像として対象化ものを祈祷したとしても、それによって菩提に触れたことにならない。それは単なる体験に過ぎず、我々のエネルギーの顕われの一端を見届けたものに過ぎないのだ。
そのような粗大なものを用いることは、到達すべき限界をつくってしまうだろう。ゾクチェンの教えが用いる白いア字の観想では、よりシンプルな我々のエネルギーの顕われに接近したものを用いることによって、よりリアルな本質にたどりつける可能性があるのだ。
あらゆる限界を超えるには、既存の修行システムや修行ツールすら乗り越えていくしかないだろう。
勝義諦、世俗諦といった二足の真理によって心の本性に到達することも、心の本性に入っていくことに壁をつくってしまうことになるだろう。
十の般若や十地は、もともと心の本性から自然に湧き出てくるものなので、あえてその行為を実行しようが、それを願おうが、また十二因縁を放棄しようが、その行為によって菩提を得られることはない。
物質や概念につながった行為によって菩提に触れ得ることはできない。なぜなら、菩提心とはそういうものではないからだ。
意味の無い行為、意味付けをしようとする行為、どのような行為も概念の皮膜を剥ぎ取らなければ、なにも真実の行為とはならない。
ゾクチェンというものを仏教的教え、哲学概念の中だけに閉じ込めてはならない。白日なものとして、あらゆる世界の道に通じる教えとして紹介していくべきであろう。
煩悩を増大させた行為
煩悩を放棄させた行為
邪魔がないという行為
邪魔が入るという行為
自己顕現が現象化したとき、どのレベルで現象が顕現しているかを観察する必要がある。問題が起きているならば、その行為の正否を観察すべきだ。正しいと思うのならば、断固として邪魔を振り払ってでも生きてゆけばよいのだ。またまったく邪魔が入らないことも問題となる場合もあるのだ。この正否は六大課によってその行為の正否を予報することは可能だ。
自らの覚醒を失ってしまった、自己を放棄してしまうことは、真の自分をなにかにあずけて生きることになる。それは自己の自由性すら失うことになるのだ。
大切なことは、自分としての個体性を失わないことである。
これを失ってしまったら人々は、なんらかの概念に支配されて生きていってしまうからだ。
全体性の中で自らの固体性を見出すべきだ、それこそが自らの菩提心の輝きなのだから。