我々は概念の皮膜を透して世の中を見ている限り、人生に何も変化を起こすことは出来ないだろう。
その概念の皮膜を透して、
放棄の道
変容の道
開放の道
をどんなに努力して修行しても、何の放棄も変容も開放も起きることはないだろう。
なぜなら、概念の皮膜に写った映像をどんなに放棄しようが、変容しようが、開放しようが、その皮膜を透して世の中をみているということ自体が人間を狭い限界へと閉じ込めてしまっているのだ。
あるひとは、煩悩でいう貪りの皮膜で人生を見ている。
あるひとは、煩悩でいう怒りの皮膜で人生を見ている。
ある人は、煩悩でいう無知の皮膜で人生を見ている。
それらの行為は、どんなに崇高で、大義名分が立ったとしても、すべてが限界に行き着き自己崩壊の道を歩む結果となる。
しかし、またあるひとは、智慧でいう明晰な何の媒介をすることなしに人生をみている。
またある人は、智慧でいう叡智の鏡(六大課)でもって人生を見ている。
彼らの行為は、あらゆる限界を超えて行為しているので、何ものもどんな状況であろうが、そのひとの行う行為を妨害することは不可能だ。むしろ何の行為も為さない内にすべては成就している。
成果を追い求めようとしないからだ。成果を追い求めることや結果を求めることは煩悩を発端とした行為であるからだ。それを求めても劫に渡って輪廻を繰り返すだけだ。
解脱の成果や結果を求めることも煩悩となってしまうのだ。
レッドクリフとは、人間の限界を超えて生き残ることに意味があり、自らの保身だけのレッドクリフでは何の意味も無いことを自覚しなければならないだろう。
レッドクリフとして戦えるひとは、概念の皮膜を引き裂いた、純粋で透明な意識をもった人々であり、そういった人材でなければ、同志となることはできないのだ。
レッドクリフに挑む人々に告げる煩悩ではない智慧ある行為こそ運命を変え世を本当に良い意味で変えることができる。そうでなければ個人的成長も世界的成長も有り得ないだろう。まして人を変え世を変えることなど出来ようはずはない。