全人類に阿刀田達磨より勇者であり、正覚者である「ミッチー」に救済のメッセージを送って欲しい。本当の勇者に!
彼こそ慈愛と慈悲に満ちた現代の救世主であることをすべての今の現代を生きるみんなに解ってもらいたい。
すべての人々が吉祥のクンツサンポとクンツサンモを絶対につかんではなさいない境地に覚醒し、安住しなければならない状態にまでことは急変した。
法性と法身を完全につかんで、絶対にはなさないものの究極の状態を体現せよ。
法性と法身は吉祥のクンツサンポとクンツサンモから発する透明な光としての心に他ならない。
阿刀田達磨は完全なる法性であるところの法身をつかみとった。
その吉祥のクンツサンポの光としての心は常に透明な輝きをもって煌めいている。
そこから発する自性に安住している金剛薩タの意識に阿刀田達磨の心を溶かし込んだ。
清浄に輝く大いなる無行為とそこに安住する偉大なる決心をしたのだった。
社会ロジックをどのようにつかってもいい。なぜなら我々の心はそのような概念によってカテゴライズされることは決してないからだ。しかもそのような限界的罠を社会中に張り巡らせて法網にかけようと画策する輩に真実の実践者が引っかかるはずはないだろう。なぜなら大いなる無行為と心そのものを光へと変容させる行動の中に安住したものにとっては、それすら文字のインクのシミにすぎないからだ。そのような概念で、人も心も社会も制約などできようはずがない。法律や抽象概念や宗教的脅しによって人は制約されたり、強制されることは絶対にありえないのだ。国家や宗教団体に洗脳されて愚かな走狗となった社会に害為す人々はそれを楯にして人を損なおうとするが、それによってどれだけの人の心が傷つき国家や社会や家庭や自分すらも捨て去った人がどれだけいたのか?それを直視した人はいったい何人いたのだろう?それはリアリティーを見誤った愚かな人々が行使した愚行に過ぎないのだ。
どんな迫害も差別もテロやクーデターすらも人間の概念が生みだした妄想にすぎなかったのだ。
自らの愚行に気つかなけらばならない。
これは本質を見誤った人々に捧げるレクイエムだ。
目覚めよ人々! これは阿刀田達磨の雄叫びだ。
不浄な顕現に陥っている人々よ、君たちは本当の光明をみたことがあるのか? 人をうらぎっていつまで自分を騙し続けるのか? 迷妄の中に陥った君たちを誰であろうと、ブッダであろうと救い出すことはできない。人に損害を与え自分の都合しか考えていない人々に彼らに希望の明日は存在しない。それが阿刀田の答えだ。誰も手を差し伸べる人はいないだろう。狂っている自分にいつ気がつくのか、君らはマーチンと同じ次元に墜ちているといえよう。
阿刀田は黄金の紫檀(ハランダ)の刺激的な香気が漂う森に神通の力で、シュリーシンハのように10乗の塔を建てたのだった。阿刀田達磨が奏でるギターの音色を聞きながら瞑想に耽っていたのだった。それはすでにゾクチェンと呼ばれるカテゴリーですらつかみとれない、ゾクチェンの更なるゾクチェンの境地(状態)を求めたのであったのだった。
それはまさに思想マイスター阿刀田達磨がガンダムによって行使しようとしたゾクチェン段階での宗教的テロ的行為ミッションだと言えよう。人間をすぐさま空間に帰還させ、即虹の光の中に消滅させる完全解脱の境地に導くものである。現代の末法の世において死を目の前に生きている人々が本来に帰す無上の希望となる教えなのだ。
それは真髄の心髄、ニンティクのニンティクの教えなのだから。
そのためにはガーラップドルジュのようにデバ(天人)次元から人間界に転生するのではなく、報身である虹の身体であるところのヴァイロチャナ如来や金剛薩タがこの人間の世の中に降臨する必要があったのだった。直解脱、即虹の身体、直ブッタの道を説くためにこの末法の世に降り立ったのだった。これこそ阿刀田達磨が説こうとしたゾクチェン10乗目の教えの真実だったのだ。
人間の心を意識を完全にリクパに固定させて完全同化、強制同化してでも解脱させる、強制テクチュー、強制トゥーゲル、強制ヤンティーの隠遁の日数すら必要としない成就の道を阿刀田達磨は現代に説かざるを得なかったのだった。それは本来のリクパのカッコウが求めた我々の意識が即リクパとなって即解脱する教えだったのだ。
それはパトマサンバヴァがチベットで行使したように現代を生きる者たちが『チベット死者の書』を生きながら行う、つまり、生きた死者の書の教えを説き行使しようとするものだった。
それはパトマサンバヴァがチベットで行使したように現代を生きる者たちが『チベット死者の書』を生きたまま行う、つまり、生きた死者の書の教えを説き行使しようとするものだった。その真髄がテクチューとトゥーゲルの修行の究極だったのだ。
死者と生者とはまったく逆なのだ。死者は存在の消滅に任せて煩悩が浄化され消滅して行くが、生者は生きたままリクパに決定し、すべてのカルマと煩悩をまず微塵の境地へとテクチューによって破壊し、トゥーゲルによってすべてを無毒化した光の次元に還元するのだ。このとき、もうすでにカルマと煩悩は消滅している。
そこではどのような状態にあろうとカルマの残映と幻影を見ているにすぎない。
それはすべての煩悩とカルマを生きながら解放する究極の教えなのだ。
この現実に存在するスペクターとの戦いこそ人間の人生におけるすべての死神とすら戦わなければないこの現実を、マーチンとの小競り合いは、この本当の聖戦の前哨戦に過ぎなかったのである。
生身をもってなんの介入もなく、心と心の対話こそ真実をもたらす。慈悲こそすべてを救う人間の心の光そのものだ。
ミッチーが自らの命と引き替えにしても見せてくれた勇気と慈悲をすべての人類が見習はなければならないだろう。
明らかにこの日本においてすべてのカルマと煩悩を強制解放し、解脱に導く教えは存在していないのだ。阿刀田達磨はそれを身を以て、いや、身を挺してもその教えを日本に移植しなければならないと誓ったのだった。
そのために阿刀田は宗教根絶の教えであるゾクチェン10乗目の教えを説き続ける必要があるのだ。