セム 心部 概念的理解を優先している。つまり、究極の概念を理解した状態を悟ることに意味があると説く。
ロン 界部 設計図の構築、解脱への構想。
ニンティク 教誡の部 二つのニンティク 要訣を打ち込んで解脱させることに似ている。
確信の核心部分 テクチューとトーゥゲルは、セムの究極、ロンの究極、セムロンによる究極の解脱の状態を説く。
つまり、究極の概念を超えた状態を実現し、持続する方法としてテクチューとトゥーゲルの修行が存在する。
究極の究極を論じ説く教えそれは仏性のありのままの在りようを説いている。
究極の究極論では、この現実に置かれている問題を超越することは、不可能だ。しかし、それさえも超える概念すら超えるその可能性を秘めた教えが存在することも事実である。
しかし、所詮概念の構築物は、ときとして幻想となってしまうので、人間の心(セム)のもつ限界概念に縛られてしまう。概念による解脱では、人は本当の仏性に辿り着けないのだ。
その究極の概念を常に持ち続けながらトゥーゲルの修行をすることで、その概念すら乗り越えて、飛び越えて行こうとする修行法なのだ。
大切なことは、究極の概念を超えることと、仏性である仏の三身を自らの心・口・意に顕現させることが、それが重要だ。
セム→ロン→テクチューとは、概念を超えた概念の戯れによって一気(頓悟)に仏性に辿りつこうとするアプローチ法である。
しかし、概念化した心と界から離れたところに概念は存在できないので、逆に概念によって縛られて、仏性の境地を誤って認識して頭だけで悟ってしまう場合がある。
宗派や教えという概念に縛られている以上、その状態やステージから解脱して仏性に至ることは決してない。
だからトゥーゲルの修行のように宗教という概念が自然に破壊され、放棄されたところに本当の解脱は生じるといえよう。
反対にトゥーゲルだけの修行で解脱しようとしても、心そのものが解脱に大きな要因を持っているので、解脱の設計図すらできていないのですから彼らが説く解脱は特異現象が顕現するだけで終わってしまうでしょう。
形となったもの個体性を持ったものを概念で捉えている限り、永久に悟りを生むことはないだろう。(恋愛もスキスキではダメなんですね~。本質を見届けないとね。)