教えによって人間はどこまで自らの固定概念である自らが作り上げた概念の我が家を倒壊させ、自らが犯したカルマの断罪を解放し、より無垢なる神仏の境地に近づくこと、つまり、完全解脱するにはどうしたらよいのか?。
我々が現代に生きるこの世のモードではない如来や菩薩や明王や神々やダーキニーたちのモードにどうのように我々を遷果させるのか?。
それにはまず、我々の心(セム)から大変革するしかないだろう。
我々の意識を裸(あるがままの)の空に、我々の各個の意識を完全なる裸の明知の空に置いて、要訣を、撃つことで、意識を浄化に、解脱に導く可能性はある。
すべての問題は我々の意識がすべて写し出している。
その苦しみの根源を絶つには、何らかの心計をもったものでは、外見や見せかけの浄化は出来たとしても、根源であるところの自らが為したカルマによる根本的な汚れと負債を解消することはできない。
一個人の過去世のカルマだけではなく、家のカルマ、家系のカルマ、土地のカルマ、つまりは、本人以外の家族や遠縁の親戚だけでなく、土地のカルマすらも、のしをつけて本人にダメ押しで、のしかかって来ているのだ。
それが個人の運勢や家相や墓相の風水にまで悪影響を与え、個人に歪められた不本意な運命を、そして家族に、一族に不条理なカルマの負債をみな何も不平を言うことも強制されて今世でその高額な負債を支払っている、それが我々の悲しき運命なのである。
ある宗教概念によって固定なるある一部分を成就法によって浄化する方法(境(ロンといえるのか)を封印する方法や大印や後期密教の方法)を用いて導いたとしても根源的な浄化は果たせない。
なぜなら、究極の密教の解脱法をもってしても我々の煩悩を解決することはできない。
なぜなら、人間として我々が今世に存在するには、煩悩と人間となるべきカルマがなければ存在できないからだ。
人間であるがゆえに背負う運命だから。
その矛盾の開放をゾクチェンの教えは求めたのだった。
個人、家、お墓をもし浄化出来たとしても問題は山積みだ。
問題は、すべての意識が浄化され、来るべき自らの死に向けてどのように対話し、準備し、対処していくかが仏教の最重要課題であると『チベット死者の書』は説く。
それは死して尚、仏となるか?、それとも六道輪廻と呼ばれる再生のバルドに向うのか?。
今世で行った意識状態がそっくりそのまま来世に向かと考えている。それが人間としての究極のリアリテーが待ちかまえていると説くからだ。
だからこそ、現代に生きる我々は、生き残る為に絶対にリアリティーのないものを追ってはならない。それは解脱を阻み、それは我々を迷わす幻影だからだ。
だからこそ、シュリー・シンハは『クンチェ・ギェルポ』で、蜃気楼を追う鹿はいないと説く。
グル・パドマ・サンヴァバァは説く、世の中の世事に熱中している閑はない。なぜなら、人は限界概念の中で生き、肉体的な死はもうすぐそこに忍び寄ってきているのだから。
天寿を全うせずに、志半ばで逝ってしまう人もいる。
それが概念による世事に拘った概念による自殺と言って良いだろう。
そのような人々の心は悲しく幽閉された独りよがりのテロリストと言わざるを得ない。
本当に愛していない人を愛せないように、人間とは、概念に縛られてしまった人々なのだ。
しかし、本当に愛し合える、いや、その器に値するグル(どんな人間関係や動物や物や印象やそれ以外のくだらなくても何ででもいい。それが当人を奮起させ覚醒させ悟り導くならブッタだ。)と呼べる人に出合ったのなら歓喜が生じるはずだ。
それこそが歓喜天のヤブユムの神々が言わんとする密意なのだから。
だからこそ、マハームドラやゾクチェンの瞑想法が重要な意味を持つ。
しかし、極度の意識の汚れやカルマの負債が大きい不徳の弟子たちには、その秘宝を理解し、実習する功徳すら持ちあわせていない、つまり、資糧に、解脱すべき資質に欠けているからだ。
加行はそのためにある。
心を浄化するために行うのだ。(どんな求道であってもそこからすべてがはじまる。)
心が浄化されていない内は、どんな手だても悪しき方向に向かうだろう。
しかし、その加行すらできていない人々が今世において解脱を求めることがすでに問題だ。
意識の家が倒壊出来ていない人々が、いくら悟りや解脱を求めても水泡に化す。
それをマーチン教団やキリ教団が証明してくれたのだから。
自らの本質と来るべき対話をする修道システムとしてゾクチェンの修道は、顕然として現代に顕現した。
もちろんハードルは高い。それをちゃんと教えてくれるグルすら存在しないのだから。
見方が変革すれば、意識も変わり、心もまったく今までになかった顕現を産み出すだろう。
概念すらすでに超えた見解を有すなら、必ずや自らが課している限界を乗り越えることは可能だ。
なぜなら、ゾクチェンの修道の見解であるところの基・道・果は、人間の存在モードである身・口・意をそっくりそのまま虹の身体を持つ存在モードの仏神へとこの空間へと遷化させるからだ。