生きたバルドの道を歩む我々は、対称化される自己顕現であるところの対象物、或いは人者に対して何らかの感謝や尊敬や崇拝し合いながら助け合うことがなければ、互いが共存し、生き残る術と道はないだろう。
その対称である、彼、彼女、またそのそれぞれを、
師(ブッタ)と想えば、師(ブッタ)となる。
占い師と想えば、占い師となる。(それがたとえブッタであったとしても。)
恋人と想えば、恋人となる。
家族と想えば、家族となる。
あかの他人(縁無き衆生)と想えば、あかの他人(縁無き衆生)となる。
嫌われ者と想えば、嫌われ者となる。
その対称が一時、一会であれ、ブッタである場合は、尊称として崇めるべきであろう。
しかし、それを自らの所有物だとか関係のない人だとか最悪には迷惑をかけた頂本人などと思って、その対称を汚したりしたなら大きなまちがいである。
たいへんなバチが当たることになる。
存在する意味、対称化するには非常に大きな意味がある。
それを真摯に受けとめるのか?、それとも思い違いするのか?、目の前にブッダが現れているというのに!。
その対称にブッタの輝きをみることができれば、自ずと畏敬の念が溢れてくるはずだ。
勘違いしてブッダと争えば、悲劇が訪れる。
ブッタを知らない土着の神々や外道の人々と争ってもしかたがないことだ。
異常なまでの搾取や人道を越えた道ならぬ道を歩む人々やリアリティーを完全に見誤った人々には必ず滅びのときがやってくる。
改心が必要だ。これが本来の倫理や道徳であって本人の心に大きな問題があるといえよう。
その行為はまさしく当人の意識から自然に溢れ出てきるものだから心を大きな問題としなければならないだろう。
その渦中にある人に告げる。
悟れなくても覚りなさい。それが筆者の助言だ。