断罪
おのが罪に気づこうとしない輩たち。
その罪をあがなうときは必ずややってくる。
いま苦しんでいる人のためになぜ断罪しないのか?。
それがあなた方が救われない大きな原因だ。
なぜ懺悔し、反省して心を入れ替えようととしないのか?。
自らのその歪んだ顔がみえないのか?、それとも自らの道ならぬ顔を直視しようとしないのか?。
時は流れ、死が訪れて、生きながら罪をあがなうチャンスすらなくなることをなぜ理解できないのか?。
今がその絶好の時なのに、なぜ実行しようとしないのか?。
哀れ、愚かな人々に誰も救いの手は差し伸べられないのだから。
自分たちが魔の教えを信奉する教団であることを認めることだ。
魔界仏界同如理とはいえ、そこから離れること、善悪や執着や嫌悪から離れることに意味があり、皆同じではない。
所作タントラレベルはまだ発展途上の教えであり、完全なる教えを説いたものではない。
それに満足していてもその教えの概念に縛られていてもダメだ。
自らが信奉する教えがどのレベルにあるのか?、それを知り、理解する必要がある。
最高だと想った教えが実は最低の教えであったり、まったく眼中になかった最低の教えが実は最高の教えとなる場合がある。
自説のその師匠の自らが提唱する解脱成仏が最高であるといくら唱えても言行一致しなければなんの意味もない。
思い込みの解脱成仏やマジックやトリックの解脱成仏を説く輩は世の中に万といるのだよ。
それは顕現を映し出す鏡の意識によるパラドックスによって個人差があることは否めない。
心を込めて純粋に観ることだ。それを見解と言う。見解と現象が一致したのならリアリティーの本質を垣間見た、つまり、心眼で、現象を見、その真実を顕わに掴み取ったといえよう。
自己満足の見解では、洗脳された顕現を打ち破ることはできない。
道や覚りを求める人々に告げよう。
概念的洗脳を打ち破り、真実を観る智慧の眼を育んで欲しい。
そこにこそ、覚りの、悟りの、終着駅がある。
だからこそ、筆者は、自らが会得したゾクチェンの教え、つまり、私(ローカルロジック)の異端とも呼ばれても仕方がない教えを説き続ける。
ローカルロジックからオールロジックに向かう、つまり、個から普遍を目指す教えを説き続ける。
それが個として顕現した私(ブッタの化身としての)の存在意義だから。
(魔境教団(外道)を撲滅し、根絶するまで命ある限りその断罪とその汚れとに筆者は戦い続ける。勝利の日となるまで。それが筆者のカルマの負債を解消するレッドクリフなのだから。すでに被害者であるその魔境教団が搾取し、汚した善良なる人々数名を確実に救った。筆者に救いを求めるならば、その魔境教団に汚されたすべての人々を浄土と呼ばれる彼岸に渡すことを成し得ることができる。それが筆者の決意でもある。それが筆者が苦心して体得し、会得した私なりがゾクチェンと呼ばれるグル・デバ・ダキニが個人的な悟りに直接武装介入する聖なる教法なのだから。これ以上の教えはこの世に存在しないだろう。なぜなら、教えという概念すらぶっ飛んでいるのだから。それがダキニの教え。。。)