生起した問題に対して真剣に向き合った人は、それなりの成果を期待することができる。しかし、いい加減に適当に対処した人には、期待とは裏腹の反対の不幸がやってくるだろう。
人が真剣に忠告を発しているのに、その真意をまったく心を開こうとせず、断固聞こうとしなかったものたち。
良いアドバイスを聞いたとしても、それを実行できないでいれば、残念ながら、死はすぐそばにやってくる。(脅しや恐怖に関係なく。)
理想を追う人々。人を貶す人々。
道は二つに分かれた。解脱開放を求めた人と、煩悩と妄念と搾取を求めた人々。
答えは、明らかとなった。救いの手を、対称をブッタとして、崇めるのではなく、欲望の対称として相手を汚すことしかできなかった者。
ブッタをなめた人々の末路。
師にブッタは降臨する。師の中にブッタの輝きを見出せなかった愚か者。
そこに生死は分かれた。
師は弟子を彼岸に渡すことに成功した。
しかし、大きな勘違いをした煩悩の住人には最悪の結末を迎えた。ダーキニーすら匙を投げた。
その意味を深く、噛みしめなくてはならないだろう。
救うべきブッタの化身がお迎えに来たのにも拘わらず、なんの感謝も謝礼もなく、神聖なるブッタの存在を詐ることしかできなかった三悪趣の住人たち。
三悪趣に堕ちるのは本人の自明とはいえ、あまりに哀れすぎる。そこには神も仏も天使すらも否定されるから。
バチが当たったのだ。それは自らのカルマの負債が熟した結果にすぎない。
それは自らが背負いあがなわなければならないカルマの負債なのだから。
マーチンもそれに同等な魔境教団も同じ道が用意されている。
だれも彼岸ではなく、魔境の三悪趣の住人なる。なぜなら、その方法が欠けているし、解脱に信をもった修行がなされていないのに、霊験あらたかなグルもダーキニーもデバも不在なその集団の中で、誰が解脱成仏できるというのか?。
三宝をなめた教団がどうして解脱の結縁を得ると言えるのか?。
グルヨーガすらできていない、師より破門されるような傲慢教団にブッタが顕現する訳がないはず。
仏教を根本からなめきっている集団に外道集団と呼ばれる十分な条件が揃っている。
明白だ。そこに拘わった霊的憑依は非常に深刻な問題となっていることを当の当事者は本当に理解しているのか?。霊的犯罪があったとしたら絶対に裁かれるだろう。
だからこそ社会に与えた責任を取って欲しい。本当の善意と仏心があるならばな!。
帰依と懺悔はそのために真実として顕然する。
だから、残念ながら本当のグル、デバ、ダキニしか今ある最悪の状態を打開することはでない。
そこれこそが真実なのだから。