保持するもの。
あるがままに与えられたもの、天から授けられたものは、誰がそれを剥奪しようと無理な話。
高額な不本意なお布施は、その負債は、当人に無い場合は、支払い義務は発生しない。
福徳を真面目に集積している人々から金品を巻き上げて搾取しようとする愚かな宗教者たち。
あなた方に存在意義が果たしてあるのだろうか?。
神仏は見ているというけれど、自らが為した所行が正しいかどうか、自らの智慧を発動させてみる必要があるだろう。
それによってカルマの解消がされたのならば、布施をする意義はある。
しかし、何のカルマの解消もなく、人々を奈落の底に沈めようとする宗教家がなんと多いことか?。
悪しきカルマさらに相乗効果をもって積み重なる。
智慧のなきことが度が過ぎる。
所行は明らかになる。
滅びはすぐそこにある。
生き詰まる。
それが人間の運命なのだ。どんな崇高で有ろうが、人間というモードから脱出できないでいる限りカルマからの支配から逃れることはできない。
中途半端な超能力を得たとしても人間のモードにあるものたちは、六師外道のつまり、ブッタの手のひらの中にある。
六道の中の聖仙となること、それ以外に何の意味があると言えるのか?。
自らの本質と本気で向き合う勇気があるならば、必ずや答えは出る。
行くべき道もはっきりする。
覚悟と決意のない人々に解脱と悟りはもたらされないのだから。
無償で為した善意の行為に福徳はどんな場合であれ山積みされて行く。
それが功徳の資糧であり、つまり、ブッタの顕現の中にある。
これこそが本当の供養であり、布施だったのだ。
だから生きたグル・デバ・ダキニに、真心から、尊崇すること、供養すること、帰依すること、布施することが、無上菩提を生む、つまり、ブッタに目覚める結縁と必ずなるはずだから。
それ以外の解脱などは有り得ないのだから。