セムの浄化法
心とは何かと問えば?。
映し出すものと説く。
すべての対称を写し出す。
その対称に支配されて翻弄されるのか?。
それともその対称を自らの輝きと認めるのか?。
すべては、自らの心の在り方によって決まる。
心とはもともと清浄で清らかだと人は言う。
しかし、それは根源的な心を指し、我々の日常の心は汚れで一杯である。
汚れが極度に達したとき自己破壊と他者への破壊が起こる。死すまでその運動を繰り返す。
運勢の悪いときや不幸に逢ったとき人は、意識の穢れを増殖し、積み重ねる。
あるときやあるポイントに行ったとき、それが発動する場合がある。
それは我々の識にすでに植えつけられていたもので、それがときを熟して発芽したのだ。
識はカルマのすべてを記憶し、負債のすべてを記憶している。その負債があるからこそ我々は存在しているともいってよいだろう。それが運命というものかもしれない。
だから、瞑想して心を浄化するのだと説く。しかし、神々が為す二元的な瞑想方法では心は永久に解脱を経験することはないだろう。
日常的な心がもし汚れているとしたら我々はすべておいて自他共に対称を汚していることになる。
なぜなら我々の心はすべてを写し出し、それに受容と拒絶してしまうからだ。
そうして知らない内に我々はカルマを積んでいる。善行には誉れが来るし、悪行には裁きがやってくる。
一人の愚業はまだしも集団や団体ぐるみでやられたら眼をあてる閑もないだろう。
欲望に縛られている限り、その行いは、必ず穢れたものとなってくる。
これが我々の存在するルールともなっているのだ。
心の本性という非日常的な心が我々の根源の中にある。
それは日常的ではない二元的な思考に汚されていないものがある。
そこに我々の意識を常にもって来ること、それがセムの究極の浄化法である。
様々な物があったとしても心がなければそれを認識することはできない。
たとえその同じ物があったとしても心の方面によって多様な解釈や認識がなされるだろう。
その二つが我々の心の世界を構築しているといえよう。
現象諸法を心が捉える方法としてセムがある。
ありのままを写し描くために、セムはリアリティーの無いも、自性のないもを捨て去っていく。なぜなら幻影だから。
そこに顕然たる心の解脱があるのだから。