解脱への虹の階梯
心からセムから攻めるのか?。
法界からロンから攻めるのか?。
メンガクからニンティクから攻めるのか?。
ゾクチェンは、三部の教えのどれでも良いから三昧のバルドに趨く方法が説かれている。
三昧のバルドに入るためなら八乗の教えである方位も風水も十分考慮するすべきであろう。
現代においては、瞑想センターや寺院や禅寺のみが良き瞑想のフィールドとは言えないからだ。
さらには、教えのレベルや階梯であるあるところの内・外・秘密・再秘密の四階層の深みを理解していく必要がある。
ゾクチェンの教えでは、聞・思・修の三つの実践が重要であるが、まず人の言うことをしっかり聞こうとする態度は、基本中の基本となるだろう。
そして良書を読む必要があるのだが、ほとんどの人は、自らが限られた見解の中で、その本を読むので、どこまで行っても著者の真意を理解することはできない。
死した著者なら仕方がないが、生きた著者に直々に面談したとしてもそれでも不可能だ。そこにこそが我々の持つ人間の意識(みんなそれぞれ異なる識をもつからだ。)の限界なのだ。
コミュニュケーションには所詮限界があるのだ。
なぜならば、我々はその限界概念の中で封印され活かされているからだ。
その限界をどう受け止めて行くのか?、これは、政治や世事やそれに対した占いや宗教に限らず、人間が生き残るための最重要テーマであると筆者は想う。
お互いに解り合おうとすること、譲り合うことが、どんなに困難であるか?。
戦争紛争・宗教紛争・家庭不和など、数えればキリがないこの世の中の紛争の根本は解り合おうとしない、譲り合おうとしない、我々のこの頑固な心(セム)にあるからだ。
武装兵器やテロリズムを説きそれを行使してしまう人々の心とは、裏を返せば人々がより解り合いたいという人間の心の本音(本質)が投影されたものではないのか?。
その隙間を無理にでも埋めようとする根絶意識が、戦乱を産みだすのではないか?。
我々が個としての自らの利益と自らの幸福しか、もし考えていないとしたら他を排除する戦争や宗教紛争は永久に尽きないだろ。
それが、もし、その限界を打つ破ることが出来たのだとしたら、それを奇跡と呼ぼう。
人はされたことに対してその記憶は残っているけれど、自らが為した愚業の記憶を忘れ去っている、それが問題だ。自らの断罪を隠し通して輪廻転生しているのだから解脱できない訳だ。
なんの開放も浄化もされていない意識、それこそが輪廻の正体だ。
我々が駒に過ぎないとしたら三国志のレッドクリフの再来であるといえよう。
その駒が諸葛孔明のような働きをするのか、それとも単なる歩兵としてこの世を去るのかと?。