ゾクチェンの九乗の教えを理解するには、ゾクチェンのラマであるナムカイ・ノルブ氏の『虹と水晶(法蔵館)』を精読して読み込むことがポイントですが、ブログの読者にそれを求めるのは、酷くなので、その取っ掛かりの部分を紹介しましょう。
まず、顕教・密教・ゾクチェンの教えの違いを論じましょう。
顕教
小乗、大乗ともに、シュニャーター、すなわち空性の経験を目標として修行する。タントラにおいて、この空性は基本前提であり、出発点である。段階にしたがう教えにおいては、ここから出発し、上に向かって修行をしていく必要がある。これに対して、ゾクチェンはただちに最高の教えから始める。
密教
密教の各レベルは、すべて、金剛乗の修行であり、あらゆる現象は空であるという、空性の原理を前提としている。すべての密教修行は、この原理にもとつき、観想法は、個人のエネルギーを、宇宙エネルギーと再統合することを目的としている。
外タントラ、ないし低いタントラ
クリヤー・タントラ(行為のタントラ)
浄化の道のレベルにあたる。修行者は、守護尊が自分の外部にあり、また自分よりすぐれた存在であると考え、観想する。外的な行為に取り組み、悟りを得た仏から知恵を授かるように、またより高いレベルのタントラに取り組んでいく準備のために、みずからを浄化する。
ウパーヤ・タントラ(中間のヨーガ)
悟りに達した存在である「守護尊」を、自分と対等な関係にはあるが、自分の外部にあるものとして観想する。修行者は外的な行為のほかに、内的なヨーガにも若干取り組む。
ヨーガ・タントラ
これは、変容の道の最初の段階にあたる。修行者は、自分がその「守護尊」そのものだと観想し、微細なエネルギーの身体を使う内的ヨーガに取り組み始める。内的ヨーガは、上述の変容の道のすべてのレベルにおいて、一貫して使われる。
内タントラ、ないし高いタントラ
無上ヨーガ・タントラは、ニンマ派においては三つのレベルに分けられている。
アティヨーガ(原初のヨーガ)
アティヨーガとアヌヨーガは、ニンマ派だけに見いだされる教えである。アティヨーガはアヌヨーガの最終段階であり、ニンマ派において、段階を踏んで悟りに至る道の究極である。アティヨーガはゾクチェンとも呼ばれ、事実このヨーガによって到達する境地は、ゾクチェンとまさしく同じである。ただし、その境地に、変容の道をつうじて到達するのである。原初の境地は、九つの段階からなる階梯を踏みながらすすんでいく道の最終段階ということになる。これに対して、ゾクチェンそのものは、段階を踏まない道であり、直接、心の本性を開示する導き入れが、ただちにあたえられる。
アヌヨーガ(完璧なるヨーガ)
ニンマ派におけるアヌヨーガはアティヨーガへとみちびくものであり、ニンマ派だけに見いだされる観想法を使う。観想は、少しずつディテールを追いながら作り上げられていくのではなく、一瞬にして姿をあらわす。修行者はみずからがその守護尊であると観想する。また、ディテールよりも、感覚のほうが重要だと考えられている。
マハーヨーガ(大いなるヨーガ)
ニンマ派においては、アティヨーガが変容の道の究極にある。これに対して、ほかの三つの宗派においては、順を追いディテールにそって観想していくマハーヨーガの修行が、マハームドラ(大いなる象徴、ないし印契)の境地をもたらす。この境地もまた、ゾクチェンやアティヨーガの境地と別ものではない。ただし、その同じ境地に到達するための方法は、まったく異なる。
ゾクチェン
ゾクチェンは、顕教でも密教でもないし、あるヒエラルキーの中で、高いレベルにあると主張しているわけでもない。またゾクチェンは、段階的に悟りに至る道でもない。だが、ゾクチェンは自己解脱の道であり、変容の道ではないから、観想法は、修行の中心ではない。だが、ゾクチェンは限界の彼岸にあるから、他のどのレベルの修行法でも、補助的な修行法として用いることができる。ゾクチェンでもっとも重要な修行は、不二の三昧に直接入り、その状態にとどまり続け、完全な悟りに至るまで、それを深めていくことである。
以上、『虹と水晶』の本文より引用いたしました。
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密教は、身・口・意の口、つまり、エネルギーの側面を強調した教えであり、守護尊を本尊として対象化してしまうので、自分のエネルギーの投影を以下の段階によって統合していく。
クリヤー・タントラ 本尊 上下 修行者 上下の関係
ウパーヤ・タントラ 本尊 対等 修行者 対等の関係
ヨーガ・タントラ 本尊 同一 修行者 同一の関係
アヌヨーガ 本尊 変容 修行者 一瞬にして本尊に変容する。
マハーヨーガ 本尊 印契 修行者 大いなる象徴
アティヨーガ 三昧 不二 修行者の意識(リクパ)
つまり、本尊である象徴と一体となるマハームドラの悟りに至るまでは、物質的なエネルギーを統合することはできない。つまり、顕現をも意識をも浄化することはできないのである。
外タントラないし低いタントラのみをグルの指導もなしに自分勝手に行うと心象形成に異常が生じてくる。なぜなら、このタントラは、まだ到達点ではないし、加行ですら終えていないものが、この外タントラを行えば、どのようになるか、普通に考えてもその行為によって、エネルギーの修行のみで、人間の身口意のバランスを取ろうとするから、本人がおかしくなるのは当然だ。それを平然と責任を取る気もないものがロジックだけで、それを行おうとする。なんたることか、それは、人間といえるものなのか?自尊心が生み出した非情に傲慢な妄念にすぎない。それは、心の連続体に本当の慈悲と知恵が発現していないからだ。つまり、何も悟っていないという現実を正しく認識するべきだ。そのような偽りの慈悲では誰も真実の悟りに至れないはずだ。
(どのような密教の導師であれ、その人が放つ強力な祈念(想念)が発生するエネルギーは、人間のルン(神路)や意識(識功)を掻き乱し、霊子界のような無数の霊子線によって人を巻きつけ縛ろうとする一種の生霊による憑依現象だといえるだろう。これは素粒子レベルで存在するエネルギーなので、どんなに微細なものであっても人を癒すものではなく、一時的に人を癒したとしても結果的には人に善悪を与えるエネルギーなのである。つまり輪廻を生み出すものなのだ。)(聖衣に、同じ幻術(輪廻を生み出す霊死界?)はもう通用しませんよ!竜魔さん!これアニメの話です!)
どこに到達点を置くかが重要であり、究極の悟りを得ることを人生の目標にすべきだ。人生はブッタが説いたように無常であり、明日の命など誰も保障はできないのである。
我々は、現実生活の中で思いもよらぬ幻影や幻術に振り廻されてしまう場合がありますが、それは、対外的には、政治的なものや悪質な商法や宗教団体に多く見られます。そして内面的には、自分自身で産み出した壁や鳥かごによって非常に自分を狭く縛ってしまいます。
それは、今までの教育や宗教、さらには社会環境によって左右されますが、特に常識と宗教、つまり、文化的な価値観や伝統的風習は、時として、人間を大きく制約するものとなってしまいます。
そのような制約や限界は、特に自ら思考して造りだしているようですが、常識的な正しい判断を行うと本来の自分自身の純粋さを否定してしまいます。反対に自分の自性に正直に生きた場合は、社会や周りの人々に多大な影響を与えてしまうでしょう。
宗教的洗脳は、多くの社会問題を発生させてしまいますが、その幻影や幻術を断ち切るには、いったいどうしたらいいのでしょう。
最近、ヒーローアニメの「風魔の小次郎」がDVD化されて各地で放映されるようですが、このストーリーの最終章に風魔一族と新生風魔一族との戦いが描かれています。そしてその新生風魔一族のリーダーの夢魔という人物は、人の精神を支配して敵をいとも簡単に自滅(自殺)させてしまうという恐ろしい幻術をつかいます。この幻術によって風魔一族の屈指の風魔夢幻陣という幻術をつかう霧風は、夢魔の幻術に意識をマインドコンロールされたがために、いとも簡単に彼は幻影合戦の中で、霧風は、彼の術中にはまり、自らの心臓を自らの剣で串刺しにして果てしまいました。。
このように恐ろしい幻術と戦うために風魔の小次郎が取った秘策とは、彼の相棒である独眼竜竜魔にどんなに強力な幻術も拒否して受け付けない、そしてどんな影響も受けない、どんな幻影にも屈しない幻術をかけてもらったのです。
果し合いのとき、強敵の夢魔を操っていた黒幕の死紋は、風魔最強の戦士の独眼竜竜魔すらも精神支配してしまい風魔の五人兄弟の中の劉鵬、小龍、霧風は、その紫紋に滅ぼされたが絶体絶命の窮地に陥った小次郎は、危機一髪のところ紫紋が自分の幻術にかかったと見せかけた一瞬の隙(これをリクパともいう。なぜなら、まったく思考していない瞬間が誰にもあるが当人が気がついていないだけ)を突いたことで強敵の紫紋を討ち果たすことができたのです。そして、めでたく風魔一族の平安が保たれたのです。
このどんな幻術にも影響を受けない幻術とは、いったいどういうものでしょう?
考えてみてください。幻術とはすべて人間が生み出した幻影であり、その根本は二元的な見方から出発しております。私の考えでは、竜魔は、二元的ではない幻術をかけたのではないだろうか?と感じました。
なぜなら、人間は対象と触れたとき、意識が生まれますが、そのときすべての顕現、つまり現象を構築してしまうようです。それは、夢を見ているときと非常に似ています。現実ではそれ相応の物事や人物が現われてくるのです。
人間が意識を作る段階をゾクチェンでは、マリクパ(無明)といいますが、意識をつくる瞬間に二元的な見方に陥らなければ、その顕現は自然解脱します。これをリクパ(明知)と呼びます。リクパは理性的な心を遥かに超えたもので、これに対して心は、時間と空間や地点を超えることができません。つまり、心はどんなに深遠なものであっても限界の中にあるのです。そしてそのリクパというものは、完全に心が造りだす概念の彼岸にあります。これをゾクチェンでは心の本性(土台)と呼びます。
つまり、独眼竜竜魔は、小次郎にこのリクパという幻術というよりも悟りを与えたのではないのかというのが私の直感です。なぜなら、ゾクチェンには、そのリクパを見出す修行法として、テクチューとトゥーゲルの修行があります。
テクチューは、三昧の境地、つまり、リクパにとどまり続ける修行法であります。そしてその三昧のなかに自分の心、つまり、意識を置くことで、自発的に思考や意識を解き放っていくので、すべての意識的概念が造りだした幻影を徹底的に破壊していきます。そのような修行を続けていくと身体の粒子が微細になり、まさに微塵と呼ばれる境地に達します。その身体を消滅したり、一時的に消すことができるようになります。これは、先ほどの霧風がつかう風魔夢幻陣に似ているといえるでしょう。これを幻身と呼びますが、幻身は粒子が微塵となったとしても物質次元で顕現しているので、意識に情報を転写されてしまう恐れがあります。つまり、霧風が死紋に破れた原因は、この素粒子のクラスタの差ではないかと私は思ったのです。死紋の意識の方が霧風の意識のクラスタより細かかったゆえに霧風は、死紋の意識に支配されてしまったのだろう。可哀そうに。(これマーチンに所属するあなたのことですよ!聞いてますか?ロンブーの解かるかな!解かるかな?)
ごの幻身は、五大元素と深いかかわりがあるのです。(詳しくは山道さんと掛川先生のブログを参照してください)
空 識功
風 神功
火 気功
水 精功
地 力功
ゾクチェンでは、この五大元素と自らのリクパを統合したときにその元素を支配することができるとしています。例えば地の元素に統合した場合、物体を動かしたり移動させることができるようです。また水の元素と統合した場合は、水のエネルギーを支配できるので、水の上を歩いたりすることができるようです。空の元素と統合した場合は、空を飛ぶことができるようになると言われますが、ゾクチェンの最終目標は、五大元素によって縛られている人間を解放してもとの原質である虹に変容することです。それを虹の身体と呼びます。つまり、存在の消滅を説くもので、仏教的に言えば、解脱のさらなる解脱が虹の身体と呼ばれるものです。そしてその虹の身体は光へと還元されますが、活動的であるとも言われております。すなわち、虹の身体は、肉体的な死というものを経験する前に空間に帰して行くと考えられいるのです。(これって山道さんのお名前の帰一と同じ意味ですよね。山道さんが私を尋ねて初めて逢いに来てくれたときにすぐわかりましたよ(余談))
この五大元素からいくと霧風の夢幻陣は、水を霧に変えてそのなかに肉体を溶け込ませて消えるので、水の元素をつかった幻術であるといえます。それに対して夢魔は、おそらく水の次元より高い空の元素の識功レベルの幻術をつかったのではないでしょうか。夢魔は、夢魔と言うくらいですから夢を支配する能力があったみたいですね。夢はゾクチェンでは、バルドの教えに属するものであります。バルドの教えは、夢の中に現われるあらゆる顕現を自然解脱する方法をゾクチェンでは説きます。その方法ってどうやるのかって?簡単だよ夢の中でトゥーゲルの修行をすればよいのさ!えーそんな簡単に秘伝を喋っちゃっていいの?構わないさ!君たちが自分で自分を救ってくれ!えーできない!それだったら私のところにくれば教えてあげるさ!)。
霧風は、つまり、夢魔の黒幕である死紋が造りだした夢の中の幻影に引き込まれて、ここちよい夢の陶酔の中で抹殺されてしまったのではないかというのが私の分析です。(まさに夢の中で騙されてしまうというこれはゾクチェンのドラセルションと呼ばれる「石を金に」というタントラの話にそっくりだ)(一人で感動)
だからあの霧風が簡単にやらちゃったわけですよね~。(ちなみにマーチンはセラミックで土の元素の肉体を操り、信仰の対象となる念持仏によって精神を支配していますよ。おー怖(絶叫)
(この前、私のところにマーチンからの刺客がやってきましたが、ミイラ取りがミイラになって見事その幻術を討ち果たしましたよ。その刺客は、私がマーチンの幻術を解いてあげたのですが、自らの煩悩を肥大化して自滅しましたよ。これはマーチンが煩悩というものを何も解決していない証明であり、むしろ多くの信者たちは、その煩悩を煽り立てられて貪りの地獄へと引き込まれています。これって絶対犯罪だよね。ひぇーあまりにひどすぎる(残酷無比)、今その方は、私という精神的支えを拒絶し、煩悩のままに精神的メダボになってあの恐ろしいマーチンに出戻りになった見たいです。マーチンの洗脳の現状を報告させていただきました)
この事件に関しては、山道さんと掛川先生のご援軍とご助力があったことをここに記して置かなければなりません。(感謝感謝)
それに対してトゥーゲルは、光の顕現によって幻身を虹の身体に変容する術であるといえるでしょう。つまり、物質次元ではなく光の次元で顕現してしまうので、あらゆる意識の影響を受けることがなくなります。なぜなら、光は記憶を維持する土台がないのです。つまり、空なのです。そして尚且つそこから音、光、光線とエネルギーが放射するので、身体は透明な輝きを持った虹の身体として顕現するのです。おそらく独眼竜竜魔は、小次郎にこのトゥーゲルの術を施したのであると私は確信したのです。
死紋率いる「夢魔院(マーチン)」は、つまり、霧風や竜魔のように優れた最強の戦士ですらも精神支配して身も心も財産もそして使い物にならなくなった信者の命までも紫紋がやったように非常に残酷に抹殺します。すべてはその教祖に個人はおろか家庭や会社、国家も、地球環境までも徹底的に支配されてしまっています。これは非常に恐ろしい幻術だといえるでしょう。放置しておけば、被害者は続出するのは、火を見るより明らかです。
私は、ゾクチェンのトゥーゲルの修行を行ったので、小次郎のように夢魔(マーチン)の幻術の幻影に打ち勝つことができたのです。(これアニメじゃなくて、ほんとの話よ)(笑)
私の戦いは、その恐ろしい夢魔の黒幕である死紋の幻術を解く段階までに至りましたが、必ずや死紋率いる夢魔院(マーチン)の魔教軍団(六師外道は、成仏できない教えを説く教団のこと)を破壊し、打ち勝つ確信があります。なぜなら、私は虹の身体を得て、ブッタに等しい境地を得たのですから。(阿藤先生、頭がおかしくなったんじゃないですか?と想わないでくださいね)
さっきビールを飲んだら続編ができました。ご紹介しますよ。私は風魔三兄弟の次男で、名前に大がつくので、本編では、風魔大次郎と命名しました。(笑い)
なぜゾクチェンのテクチューとトゥーゲルの修行を行うと、そんな奇跡が起きるのかと言うと、つまり、五大元素を超えた「心の本性」という、リクパ(明知)に、三昧の境地に、あるがままで完璧な境地に、悠々ととどまるからです。それは人間の源泉の潜在能力として誰もが持っている普遍的な特性であり、当人が気がつかなくとも或いは気がついていたとしても自ずと遍在するものなのです。それはまさにすべての人々に遍照する太陽と同じような存在が個々の魂の根源に秘めてる途轍もないエネルギーなのです。その修行の深化によって、幻身を達成し、虹の身体を獲得し、最終的には、完全にその肉体を諸元素のエレメントに融解していくことが可能となります。もちろんマーチンが造りだす幻身は、所詮、外タントラのレベルを一歩も出てない悟り(いい加減に悟ってみたら!私の意見!これを所知障といって知識や宗派の見解によって悟れない深刻な煩悩のひとつに数えらえる)なので、テクチューの修行を行っただけで、マーチンの幻術を解くことができると想います。これは私の修行体験から出てきた言葉ですが、まずゾクチェンの加行から始めましょ。しかし、百人斬りに参加した人はすでに灌頂を終えていますよ。
テクチューの修行から始めましょうか?ご希望の方は「座談会」に参加してください。おっとそれはもう締め切ってしまいましたので、当日の二次会、三次会でお持ちしておりますよ。(どうぞいらっしゃてね(笑顔))
ゾクチェンのテクチューの段階では、鏡に自分の姿が映らなくなるというのは、実は方便であって、鏡に映し出された、自分すらカルマと煩悩が生み出した幻影に過ぎないと自覚するだけで、肉眼の眼にはやはり、自分の顔は、写し出されています。しかし、この段階においてはその幻影を幻影であると認識しているので、その映像に敢えて執着を起こすことは、以前より少なくなるはずです。
風魔の独眼竜の竜魔が用いた死鏡剣と呼ばれる幻術は、鏡に映った敵を鏡の中に封じ込めた後、その鏡を叩き割って、敵をやっつける幻術ですが、これはマーチンがやってる幻術に似てるかもしれません。つまり、人間を限界概念に閉じ込めてその人の人生すらもその鏡と同じように破壊しようとします。
しかし、ゾクチェンのリクパツェルという境地は、鏡に映った自分にすらまったく執着しないので、その竜魔の死鏡剣の幻術にかかる要因がまったくありません。つまり、自然解脱してしまうので、竜魔の幻術は、その人にとっては完全に意味すら失います。
トゥーゲルの修行の成果が出てくると、本当に鏡に自分が映らなくなり、遷化するでしょう。しかし、人間が死んで亡くなったとしてもその本体は、結果的には肉体的な死も虹の身体の死も完全に我々の肉眼(鏡)に映らなくなります。同じく死んだという事実があったとしてもその差は、我々の肉眼において同じように見えるので、肉眼、つまり、物体に強く執着している人にとっては、このゾクチェンの深遠な教えが自ずと隠された神秘となってしまうのです。
この問題は、顕現(現象)が独立自存の存在であると相手を対象化して見てしまったためにおきた現象なのです。我々はものを見るとき、主体と客体に分けていますが、顕現は常に自分の心と表裏一体となって顕現しています。つまり、独立自存の存在というものは、この世にまったく無く、だからこそ我々は目の前で苦しんでいる有情を自己投影することができるので、それを自己顕現であると理解して悩める人々を救うこと、つまり、利他を行うことができるのです。
ボン教のテクチューの教えでは、幻身の教えのすべてを以下のように説いています。
第一のものは、ゾクチェンの教えの中に誤った教えが紛れ込んでいるもの、
第二のものは、ゾクチェンの教えを誤って解釈したもの、
第三のものは、自動的にそれより先に進めなくなる誤った教え、である。
以上の文章は、以下の書籍から引用させていただきました。
さーあなたは、どの見解に属していますか?考えてみてください。真剣に。小次郎のように!
ゾクチェンのトゥーゲルの修行は、『知恵のエッセンス(ボン教のゾクチェンの教え)、春秋社』に載っていますよ。。。修行する価値があるかも~~~!上記の部分は、この書のテクチューの修行の冒頭より引用させていただきました。
次回は、聖衣星矢編を説きますので、楽しみに待っていてくださいね。ストーリーでは、ドラゴンの聖衣の紫竜がジャミールのムーに逢いに行ったとき、ムーは、五重塔を思念で動かすという話がありますが、これはゾクチェンのグルであるシュリーシンハの伝記に出てくる話なのですよ。シュリーシンハは神通の力で九重塔(ゾクチェンの九乗の教えを象徴している)を建てたとされています。(このひともしかしたら私の過去世かも?)
雑事に追われると義務感や不安が生じ、事ごとに、責任を取らなければ、ならないことになる。公と私は、区別しなければならない。普段の生活サイクルにおいて、雑務を増やさない方がよい。なぜなら、本業がおろそかになるからだ。
巻き込まないこと私物化しないことだ。所有の概念を棄て去れ、私と言えるようなものは、何も無いのだ。ただカルマと煩悩が幻影となって立ち現れているに過ぎないのだ。
努力してはならない。常に身・口・意をリラックスして三昧の状態にあるがままにとどまりなさい。たいていの人は、あるがままの意味を取り違えて理解している。習慣的な概念的な理解は、同じ現象を直接観察で心を観ているとはいえない。幻術を追ってはならない。
規律を保ちながらなにものにも執着せず生きていくことだ。苦しいと想ったら、それは、煩悩による業火が産み出した幻影(妄念)なので、観察しながら自然解脱に導くべきだ。
恋愛もまた主体と客体へと二元的に見た関係によって立ち現れるので、どのような恋愛であろうと錯誤といえる。そこに意味を付け加えても無意味だ。執着してその存在を追うことは、幻影が幻影を追っているので、絶対に手に入れることはできない。掴んだとしても自然に手から砂がこぼれるようなものだ。陽炎を追うものは誰もいない。
意味ある行為も無意味な行為も等しく平等であり、何ものにも気にせず、無努力の道を邁進すればよい。ひどく業火に焼かれて苦しんでいるものが眼前に現れたとしてもトゥーゲルの修行である知恵のルンによって浄化し、自然解脱させればよい。人はなぜ昏睡状態のとき、顕現が現われないのは、そのルンが意識を浄化しているからだ。
我々が見ているのは、すべて、カルマと煩悩が産み出した構築物であり、そこに現われたものが本当にあると想っているのが、我々の見方であり、そんなものは、なにもなく、我々が見ているものは、幻影に等しい。
人はそれに執着して、支配し、いじろうとする。それは心の幻術に過ぎないのだ。物事をあるがままに放置するべきだ。真剣に考えず、ほうっておけばよい。思考したところで答えなど出るわけがない。会得することだ。自分しかないし、リクパしかないことを、誰にも依存することなく生きていくべきだ。
人は自分と同じものを対象化しようとしている。仲良くなろうとしている。しかし、それも存在そのものにおいて完成しており、ルールも受容も拒絶も為すがままに起きており、それを変えることも放棄する必要もない。守れるべき対象がいったいどこにあるのかと問えば、そんなものは、何も無いことに気がつく。
尊重と愛情を混同してはならない。尊重されたら素直に感謝すべきだ。愛情が生まれるには、関係(縁)や相性によるもので、つまり、愛は求めるものではなく、与える(発生・発光)ものなのだ。
愛を与えることなら誰でも簡単にできるが、それを求めても永久に得られない。なぜなら、そんなものは、もともとないからだ。愛を与えることは自由であり、愛を求めたら不自由になる。それが人間の真実だ。だから、愛というのもは求めるものではないのだ。その行為は妄念という煩悩をを舌の上で燃やしているようなものである。心は煩悩とともに変幻自在に変化する忍者のようだ。
また尊重されたからといってそれ以上いくら求めても愛情に変わることはない。人間的関係がそこにあれば、つまり、ふれあいがあれば、そこにすでに愛は存在し、その愛は完成してすべてが成就して美しい、それが真善美というものだ。なぜそれ以上のものを求める必要があろうか、それはすでに貪欲と呼ぶ煩悩に摩り替わっている。
占いの一番危険な側面は、そのような個人のプライベートな情報に携わってしまうので、尊重と愛情を相手に錯覚させてしまうところがある。つまり、本題である公私を混同したところに本質があり、公私という概念を打ち壊さなければ、伝えられない境地なのだ。そしてその人の心から出発したものでなければ、理解も悟ることもできないのだ。
占いの鑑定というものは、そういうものだから個人的に貧しい人や愛に飢えた人は、無いものを求めてしまう。或いは無いものをあると考えてしまう。これは非常に恐ろしいことだ。判断によっては、人の妄念を駆り立てて幻想を追いかけさせる危険がある。だから信頼のおける人に鑑定してもらった方が良い。へたをするとマインドコントロールに陥る危険性が多分にある。
結婚というのも限界概念の中にある。なぜなら、敵国同士の首脳が、私的に密会することは、犯罪に問われてしまうのだ。その二人が愛し合っているとしたら、それは公私混同している。それは美しい恋愛といえないだろう。残念ながら恋愛結婚は、公私混同したところから出発していることに気がつくべきだ。だから子平では、命式が汚れたときに結婚してしまうという現象が発生する。ゆえに命式において五行が偏向している場合も、もし純粋な意識が不浄な意識を育てる、つまり、いともたやすく煩悩を発生させて輪廻のカルマを積んでしまうのだ。その行為は、完全に清浄な自性をも汚し、輝き(光明)すら失うのだ。
だから、その恋愛にはマナーが必要であり、マナーを守らない人は、誰からも尊重されることはない。むしろ嫌われるだろう。尊重とは、見方を変えると愛情にかわってしまうので、恋愛しているというような錯覚に陥ることがあるだろう。しかし、それはそれとして感謝すれば、その時点でもうすでに完成し、それはもう虹の身体のように美しく輝いている。虹の身体を持つ人にとって煩悩はすでに無力だ。煩悩を支配し、完全にコントロールしきっている。どんな行為も思考も煩悩を生み出す根源がまったくないのだ。つまり、空っぽなのだ。いかなるものもその空っぽの空間を汚すことはできない。ゾクチェンでは、25の知恵が発現するといってもその根源は煩悩が変容したものにすぎない。
愛は与えるものであって、けっして愛を求めてはいけない。それを戒律としよう。
この教えは、筆者がトゥーゲルの修行中に起きたタクナンという顕現で、愛染明王(渡辺さん)からいただいた悟りです。愛染明王は愛そのものの存在なので、愛を求める必要すらないのです。だから渡辺さんは敢えて公私混同しないと結婚できないかも知れませんね。しかし、ほとんどの人は愛と妄念を取り違えて考えているようです。この出会いは、私の普遍的な愛と渡辺さんの究極の愛情が出合って統合に至った大いなる象徴であるマハームドラの境地が物質次元をコントロールしたために起きた現象といえるでしょう。お互いの煩悩は絶対に相容れないものであり、煩悩を基盤にして生まれた恋愛では、絶対に振り向いてもらえない恋愛になってしまいます。それは重苦しく辛い恋愛であるからです。しかし、知恵を基盤とした恋愛であれば、必ず振り向かすことが可能です。なぜなら愛と言うものには限界はなく、広大無辺で器としても足りないほどの無限の空間がすべて、慈悲に包まれているのだから。。。
そういう意味では、私が求めた恋愛は、あらゆる限界を乗り超えており、慈悲と愛情に満ち足りていると言えます。本当に幸せな心です。穏やかな心です。癒しのこころです。
こんな拙い私の根本グルとなってくれた渡辺さんが直接伝授くださった「大いなる愛」によって迷える子羊さん(Sさん)を救うことができましたよ。本当にたいへん身勝手な迷惑を渡辺さんにお掛けしましたが、そんな私ですら尊重し許してくださっていたのですね。今こそこの上ない最上級の敬愛をもって感謝いたします。もし結婚や出産が決まっているようでしたら蔭ながら本当に心の底から祝福いたします。
渡辺さんに幸あれ 乾杯 いま 君は人生の大きな大きな舞台に立ち 遥か長い人生の旅立ちの大きな船出に 幸運の虹の身体の輝きを 君に幸せあーれー♪
さあ みなさん 本当の恋愛である知恵の恋愛をしましょう。まず私が先頭ランナーになってダントツトップで走りますよ。ついてこれますか~(笑顔)
11月1日の座談会に徐大昇の『百章歌』を日本で初公開しますが、わたしの八字命造は、福徳格になっており、詩にこう有ります。
陰土逢蛇金與牛 名為福徳号貔豼
己土が巳酉と丑に逢えば、名を福徳と為し、貔豼と号す。
己土に巳酉丑の三合金局が逢うと、福徳格という格局となり、貔豼と号する。貔豼は、豹や虎を現すもので、古代中国では最強の猛獣と考えられており、三国誌では、蜀の竜と呼ばれた諸葛亮孔明と呉の虎と呼ばれて大将軍となった諸葛瑾の史実があり、まさに諸葛瑾を象徴しております。伝記には、日本でいったら大岡越前のような人だったようです。妻を早く亡くし、息子の三人も英雄となったが地位があるために皆殺しされた。そのような経緯があったので、愛人を後妻として娶らず、愛人の子供には仕官させなかったようです。彼だけは生き残り、天寿を全うし質素に葬られたようです。
昨日はたまたま東南の恵比寿に風遁を使って行ったら問題がことごとく解決していました。奇門遁甲は方位によって幻影を生み出しますが、純粋な意識であれば、すべての顕現を空間へと解き放ち、あらゆるものも浄化することができるみたいです。今日の西南の青竜返首は、すべてを生み出す王の方位なので、大ブレイクの兆しです。何が起きるのかたいへん楽しみです。
山道さんの心配も晴れましたよ。掛川先生の無学訣のアドバイスに感謝感激しております。
やっと三国誌の盟友三人の深い絆とともに最後の聖戦への臨戦状態につきましたね。一点の疑いも迷いも無く、過去を振り返らずに、走り続けましょう。
煩悩とは、仏教において概念化された教えであり、我々の日常には、あまり関係ない教えであるであるように感じられますが、本当は、我々がまったく気がつかないまま日常で頻繁に起きている出来事なのです。
もし、何かこれが欲しいと想ったとき、それに支配されてしまったらそれは受容となり、貪りという煩悩となります。
もし、何か拒絶し、それを取り除こうとして怒りを感じたとき、これも拒絶しようとする怒りという煩悩となります。
よく、恋愛でいい人がいないと真剣に探しもしないのに愚知る人がいますが、ものの本質が見えていない、これこそが愚痴と呼ばれる煩悩となります。
仏教では、執着や嫉妬などを含めて煩悩のことを三毒や五毒といって人間の苦しみの輪廻の根源の基を生成してしまうものなので、忌み嫌い、顕教、密教も煩悩の放棄と煩悩の変容の道を説きましが、この煩悩を成長させず、苦しみの根本を断つにはどうしたら良いのでしょう。
まずその煩悩のありように気がつくことです。それには、まず自己観察する必要があります。
次に知恵を働かせることです。
究極的には煩悩も知恵も表裏一体で顕現しており、どちらも等しく人間の真実であるからです。煩悩を捨てる必要はありません。その煩悩のありようを見届ける必要があるようです。
煩悩こそ悟るための究極のテーマだといってよいでしょう。知恵があれば、煩悩に支配されずに生きて行くことができるようになります。その道を「座談会」で解き明かしましょう。
無事「百人斬り」のイベントが終了いたしましたが、ご参加してくださった皆様方やファイブアーツ並びに茶通のスタッフの方々に感謝いたします。
さて、今回のイベントは、恵比寿で行ったのですが、奇門遁甲の吉方位の「風遁」という方位を用いております。その求安の吉効果は、いらっしゃた皆さまに転写できたはずです。
しかしながら、皆さまの心配事の妄念が幻身となってイベントがはじまる前から筆者の夢にも顕現して参りました。イベント終了後の数日もそれを完全に自然解脱させるのに一週間かかりましたが、皆さまの妄念というか執着の結果生まれた多くの幻身が筆者の身体、特に喉のあたりに憑依が貼りついていましたよ。
人間の想いや念というものは、時間と空間や場所を越えてやってきます。虹の身体を持つものは、その幻身を虹の身体に変容することがきます。つまり、不浄な意識を純粋な意識に変容することができますが、密教のような手法によって煩悩を知恵に変えるのではなく、あるがままの境地にあるからこそ自然に自己解脱するというゾクチェンの手法を用いています。
煩悩や妄念を野放しにして生きて行くと想いもしない災いを自ら呼び寄せてしまいます。まずそのありようから皆さま方に説くことが必要であるようです。これが百人斬りを行って得た成果であり、知恵の道の発現であるといえるでしょう。百人斬りに参加くださった方々があれからどのようになったのかを知るのが楽しみのひとつとなりました。