思想マイスターの覚醒
頓悟の道。自然に沸き起こってくる我々の心臓に宿している如来蔵が生み出す寂静な境地。これが無学訣の禅の道なのか。空であり、穏やかで、自然にゆっくり落ちついた状態になっていく。円満なる覚醒ともいうべきか。
緊張と恐怖がともなう憤怒の道は、我々の頭脳が生み出す動きや変化が起きる状況。憤怒尊とはこのような怒りに満ちた状態。しかし、心地よい境地だ。そこの究極は、大きな病気や大きな試練によって手ひどく覚らされていくのだろうな、と感じずには居られない。
ダキニーの道は、咽喉の呼吸のエネルギーに関しており、寂静でもなく、憤怒の状態でもない。ただ呼吸し、生命の息吹を感じる状態だ。あるがままであること。ダキニーがなぜゾクチェンの道となったのがよくわかる。その息吹は誰も邪魔することはでない。天地の息吹は三界を支配する。呼吸から思考が生まれるからだ。この世の世界の多様もその呼吸によってこうして生まれているのだから。
どこまで、放棄と変容と開放が、できるのか?。
その人の品格と品性が問われるしかないだろう。識功が問われる。
恋愛テロリスト
無法わがまま、自分しか見えていない者達。
自分の幸せしかみていない愚か者。
完全に煩悩に支配された人々。
これが人間の哀れな姿なのか。
ごたごた続きの人生。
カルトも宗教も政治も根源的にはなにもかわらないのではないか?。
唱えるのと訴えるものの鏡のような関係。
受容と拒絶が映し出した悲劇。
出合いが敵味方となる政治(宗教的)戦争。
なにも腹を割って話そうとしない。
見解の相違からくる闘争。(それ以前の場合もあるが。)
情熱だけで突き進もうとする二つの鏡。
絶対に割れることがない不破の鏡(金剛の鏡)をお互いに壊し合おうとする。
なぜ、ものの本質を心眼によって如実に見ようとしないのか?。
なにか違うものが見えたら、いつも排除しなければならないとしたら、過度の努力を強いらなければならない。
人間の持つ本来の強い執着と欲望と感情は、誰も止めることはできないし、誰からも疎まれる。
自らの身・口・意のマリクパの煩悩が生み出す負のエネルギーは、人生において非常に大きな問題を作り出す。(誰も知るよしもないし、筆者も無自覚だった。)
いつのまにか対称や第三者に負の大きな影響を与えている。
本人すら忘れてしまった過去世の負のカルマ(業障)が大きな原因となって発動してカルマの負債が償われている混世魔王たち。
不本意な人生は過去世の不条理が起こした悲劇であると。
しかし、だからと言って純粋で清浄な対称を汚してはならないし、その親愛なる対称を浄化することが真の愛情ではないのか?。
それには、自身の身・口・意からなる大いなるエネルギーの戯れをどのように制御して発していくことに倫理的な問題が問われることだろう。
それは、対称に直接真剣に対面して直接リクパの真髄をぶつけて行くのか?。(ゾクチェンのように。)
それは、ダキニのリクパ(明知)の真髄を直接見たものにとってあらゆる方便は幻影に過ぎない。
それとも、象徴的な方法(遠隔操作のような一時的な救済方法、安易なまじないレベルの妥協的方法)で妥協するのか。(密教のように。)
あらゆる対称を汚して救済すら出来ていない、いい加減な教えを説く道を奉じてはならない。(外道。つまり、その代表がマーチンです。それは人の弱みに従って搾取するような人々を筆者は仏と呼ぶことは永久に有り得ないでしょう。)
過去世を悔い改め新たな道への第一歩を踏み出すこと、そこに人生の大きな意味と大義があるのではないか?。
自らの三身に神仏を顕現している人々を誰が批判し、中傷すると言うのか?。仏の三身が自らに顕現していないことが、それが今信用されないし、理解されないし、愛されないし、疎まれるべき存在となっていることに大いなる自覚を持つことが大切だ。
そこにこそ解脱の秘密があると、筆者は、警告と忠告を発することはできる。
どのようなカルマの戯れがあろうとそれらはすべて善悪を超えて一味であると認識すべきで、すべての現象を善悪なしに許し受け入れてあげることが、我が師、シュリーシンハの解脱の教えであると筆者は確信している。
筆者の過去世であるチベットのラマ(どの派の誰であったかは未だ特定出来ていないのですが?。)が伝えようとするところのこのATOizmは、ブッタとなる方法を説く究極の二乗であるところの「存在の証明」と「存在の開放」のダキニのニンチィクの教えを、現代にリアリティーの真髄を超えて追求する教えである。
存在の証明と存在の開放
この二つのテーマこそが今この現代に説こうとする新たな教えのだから。
自らの本質を掴み取ろう。すでに覚っているその本質を掴んで離さない人は、必ず輝いているから。
概念に汚されることなく、リアリティーの心髄を見ながら雄々しく生きて欲しい。それが教誡だ。
テクチュー 解脱とはなにか? ~シュリーシンハの教え~
「法性が尽きて本来からの大清浄なることにおいてすら超えること。」、つまり、すべての顕現が自ずから立ちのぼり、すべての顕現が自ずから解脱に帰していくさま。
「所作を離れ透過して裸のものにすべてが止縛されること。」、(身・口・意のすべてが)裸のリクパに留まり自然に解脱するさま。
「完全に解脱し、一大平等なるものに系縛されること。」、本来・自己・凝視による・辺・独一の五大解脱。すべての顕現が自ずから自然に、自動的に解脱していくさま。
三大煩悩が単純・明快・矛盾のない状態をリクパが認識することにおいてすべてが放松されて、すべてが解脱に向かって開放されていく。それはすべての概念が自然に崩潰して、すべてが解脱への境地へと集結に向かう。まさに無の境地の体験であろう。
そこには今まで有ると想っていたもの、本当の真実だと想っていたものが自然に消滅していく。人々の秩序すら倒壊に向かう。個人の身・口・意そのものが倒壊に向かう。
それは、あらゆる概念や様式や常識をすべて超えている。言葉や概念や譬えで示すことができない。ものすごいパワーを秘めた限界を超えたものの究極の力能。そこにこそ究極の解脱がある。
それを言葉や文字や例によって表現しようとすることがすでに無意味だ。
真理などは、口に出せる言葉ではないし、どうやって言葉に出せと言うのか?。
概念が生みだしたテクノロジーや政治や文化や理想や思い込みは、人を苦しめる概念的制約に過ぎない。
二元論を克服する以外に人が幸せになれる術は存在しない。
存在の開放と解脱を説く以外に何を説けというのか?。
外道の説く、世俗八法が説く道に解脱など毛頭ない。
世にもてはやされるものに従ってはならない。
なぜなら、そこには解脱も悟りも安楽も存在しないからだ。
一時の安らぎと一時しのぎしかない教えに何故皆が従おうとするのか?。
受容と拒絶からの開放をひたすら説く。その行為はすべての欲望からの脱出であり、すべての苦しみからの解脱を説くことだから。
今必要なものしか我々の目の前に顕現しない。それが自己顕現であり、我々の心を如実に映し出している。
我々の心を離れてその現象は、決した顕れることはない。
今の時代の今このときに起きた事だからこそ悟れる。この広大無辺なる漂いにおいて船のように浮かんだ我々の心性が大いなる悟りに目覚めることに。
宙ぶらりんのバルドの世界。決定もできない世界を決定しようとする愚か者たち。
苦しみはそこから派生する。対称に執着し、妄念にしがみつき、それをつかみ取ろうとする。
問題は対称に支配されて完全に自らの本質を見失ってしまった者達にある。
自らの本質の輝きを取り戻せるのか?。マリクパが生み出す暗闇のオーラを顕現してしまった人々に。
気が済むまでやってみなさい。しかし、相手を対称とする場合は、必ず相手の立場を尊重すること。そうしないと拒絶の悲劇が起きますよ。
どうかしようとして、どうかできることなど、なにもないのだよ。
対称を支配しようとするのは自らの煩悩の働きの顕現に過ぎない。
政治も行政も概念的政治工作や宗教工作によってこの世の中がよくなったためしはない。
存在はすべての概念を越えてあるがままに存在しているのだから。
理解できない人々に、ただ解って欲しい。それだけです。
未だにああだこうだ言っているような人々は、社会からも、自然からも、誰からも拒絶される。それは考えるまでもなく当然だよね!。馬鹿なんだから。
勝手に作り上げたものは、嘘なんですよね。それがリアリティーを見誤った人々の行為なんですけどね。
自分が本当に信じた輝いている人々(グル・デバ・ダキニ・+相方)を追いなさい。そこにはなんの誤りも負債も断罪もあるわけないのだから。
偽りのグル・デバ・ダキニを追ってはならない。悲劇が起きますよ。なぜならそこにこそ断罪と裁きとイジメがある。偽りの教えを奉じる愚かな教えに従っているからだ。そうならない秘訣は自分に素直であるか?、自分に嘘をついていないか?、自分がその器に足る人物であるかどうかを吟味せよ。