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2010年8月
人はリアリティーを全然見ようとしていない。本質から誰もが眼を反らしている。
人の出合いは、非常に意味のあるものである。しかし、その本質をどこまで見極めている人が何人いるのだろうか?。
誰もその真実を理解していない。グルやダーキニーが目の前に居るのに、迎えに来ているのにも拘わらず、それに気づこうともせずに、自らの悪しきカルマと煩悩を燃やす人々。
もう自分や血縁や他人の部外者に嘘や偽りを語るのはやめよう。
そこには悟りも解脱もまったく一点すらないのだから。
リアリティーを失って狂った人生を歩む悲劇の人々。
リアリティーをみる術すら失った宗教、政治、学問、科学、その他もろもろの諸法に未来など来ないだろう。
ばかげてる。人は真実を見る眼を失っているとはいえ、真心すら既に失っているとは、完全に狂っている。
この世に未来など見ることはできない。
すべては、限界に、絶望に、生きる人々の哀れな姿。
認めよう。それが我々に課された輪廻なのだから。
悟れないロジックを行使して生きることは、外道を為すことであり、そこには、安らぎも安堵も解脱などありはしないのだから。
今すべき事を誰にも邪魔されずことなく、為すべき事をなす。
カルマの負債ではなく、自分らしい人生をあるがままに生きる。
それ以外に人生に何の意味があるといえるのか?。
本気で、本心から、素直にぶつけて生きている人々に嘘も偽りも全然通用する訳がないのだから。
だからこそそのように生きる人々に偽りも嘘もついてはいけない。それが人として生きる中で絶対にやってはならない外道だ。その結果はさらなる悪しき六道輪廻に落ち込むことは免れない。
魔境教団に依存する人々や決別した人々もその例外ではないことをとここで表明しておく。
本当に詐ることなく、嘘つくことがなく、真実の生きたグル、デバ、ダーキニーに出合って欲しい。
それにしか真実の悟りと解脱がないのだから。
私(筆者)はすでに出合っているよ。。。
本当の三宝に帰依し、敬慕と崇敬ができていない、そのあなたに問題がある。と言うしかないだろう。 私は、財も地位も過去の名声もあらゆるものをも既に投げ出しているよ。
だからこそ、毘沙門天、ダキニ天、不動明王が筆者のもとに顕現したのだから。
だから何も見ていない覚っていない人は、門前払いされることは必須だ。
それは、悲しくも自明と言えよう。
仏教に出合えていない人々が、出合おうとする人々がなんとすくないことか。
バルドの住人。
人は自らの顕現の中に閉じこめられている。
限られた概念の中に人々を追い込んでいってもそこから解脱は生まれることはない。
勝手に頭で作り上げだ概念を対称に押しつけてはならない。
傲慢で無礼な態度は人を苦しめ、対称に苦しい足枷を産むだろう。
それを開放できるのか?。それともその顕現に閉じこもって引き込んで生きて行くのか?。
回りを見廻したとしても同じ顕現のものたちばかり。
同じ顕現を持つ同士が啀み合い争い合う。
裏を返せば悟れるはずなのになぜに顛倒してみれない智慧のなさ。(というよりも智慧の酸欠状態)。
他をみわたせば不平不満に陥ってすべてを他人のせいにして自らをけっして顧みることのないマリクパの住人たち。
失敗というものを認識したとしても、すべてが失敗の中に現代の人々の心はあるのに、そこになんの成功があるというのか?。
がぶった占い師が特異な占いでもって何を説こうが何も解決しないし、そのような占い師を指名する客にも大きな問題があるが。
オファーされなければ、なんにもならない。しかし、それ以前にそのような人をオファーしてもなんの意味もないことを何時その本質を知るのか?。
妥協と迷妄の人々は翻弄され輪廻の中を彷徨い続ける。
対称とは自分を映し出す像や鏡のようなものであり、どんなものを目の前においても自らを映し出すのみで、対称の像によって何かが変わることはない。
その対称を通じて大いなる悟りに達する可能性を秘めている。
しかし、自分が悟れなければ、どんな対称(宗教や啓発や政治やその他諸々)を目の前に置こうが煩悩の受容と拒絶の堂々巡りが永久に繰り返して行くだけだ。
心がすべてを決める。だから対称である相手の心を見つめる必要があるだろう。
問題を抱えているとしたらすべて自分の心が生み出したものであり、その解決も心においてしか絶対に解決されないのだから。
解脱に向かいなさい。出離。決別しなさい。妄念と執着に。
自分を偽り、根本グルの説く言葉を欺き誑かして生きている人々にはバルトの恐怖しか課せられないのだよ。
本当に苦しみ、本当の救いを真剣にこいねがうものたちにしか、ブッダもダーキニーも絶対に振り向かないのだから。
人は解脱するための教えと福徳と糧量を保持することは、なんと得難いものなのか!。
狂った宗教にすべてを搾取され翻弄され自分の命(リアリティー)の大切さすら忘却されてしまった哀れな人々に。
愚かな宗教や解脱の可能性すら一点もない寺院に帰依し、布施するべきではない。
人には、究極的には、仏となるか六道輪廻に墜ちるか、その二つの道しか選択支がないのだから。
自らのカルマの負債を開放するためにさらなる悪しきカルマを積み立てるものたち。
彼らはことの次第を本当に理解しているのか?。
自らが犯したカルマの負債は雪だるま式となって自らに返ってくる。
良かれと想った行動が、慈悲があると勝手に本人が思い込んだ行為が完全に裏目に出た人たち。
かぶった人たち。それはテクチューのレベルの悟りに達していないからだ。
そこにはなんの救いも助けもない。
偽りの菩提心を信奉したものたちの哀れな姿。
哀れな集団の末路とそれに拘わった悲劇の人々。
そこには粒ほどの安堵も悟りも解脱もなにもなかったのだ。
悟れない人々には悲劇しか用意されていない。
限界概念の悟りや安易な解脱を説くのは、もういいがげんにやめよう。
浄化や解脱など一点もなにもできていなかった。一時の幻影(幸福)を見せただけに過ぎない。
もう嘘をつくのは本当に止めるときが来たのだ。(究極の外道であったことを認めること。しかし、それすらも感じていない輩も多いのだが。)
解脱に信を持って触れ続ける行為。
どんな悪しき行為や過去世のカルマの負債すら開放に向かう。
一瞬にしてカルマの負債から来る負の顕現は瞬時に消滅する。(つまり、完全解脱、彼岸に達する。)
この真実の仏法になぜ触れようとしないのか?。
いかなる顕れも自らを如実に映し出したものであり、ああだこうだとなんと言おうが、それが自らの本質を映し出している。
受容と拒絶、論外、思いこんだ無意味な行為そのすべてがそのまま本人の真実を写し出す。
それを細部に渡って真剣に観察していないことが問題だ。
そのためには、自分を真剣に観察する必要がある。
人は自分に気に入らない問題をそのままにして、なにも解決せずに次のテーマに移ろうとする。
論外であるし、その現象が起こった真の意味も知らずになんの気づきも反省もなく見過ごしている。
そのような人々に真の幸せのステージなど来る訳などない。
セムロンはオールロジックの悟りを説き、メンガクはローカルロジックの悟りを説く。(しかし、ゾクチェンは極めてローカルな教えと言わなければならないだろう。なぜなら、その道に目覚める可能性があまりに少ないからだ。)
究極の悟りを個人において実現しなければ、解脱の体験を実現することはできない。
どんなに真如があろが、自分が真如を体験できなければ、その道はなんの意味をもたないものとなる。
解脱の設計図をいくら眺めていても、当の解脱は永久にやってこないのだよ。
概念だけの悟りや机上の解脱に満足しているようではだめだ。
見解と行為が一致する。それをたとえるならば、良い音色がするギター。それは作り手と弾き手がみごとに融合して、お互いの価値を第三者の聞き手すらそれを認める。
悟りを求めるものの悟りが、そのような悟りであって欲しい。
真実を対称(対象)が選ぶ。それが如実であるのだから。
脇目も触れずにまっしぐらに外道ではなく、本道(聖道)を歩いていって欲しい。
概念を超越したところに悟りがある。その手法は概念を宗教すら遙かに超えている。
それこそが本当の仏法であり、あらゆる限界概念を駆逐し、宗教すら必要としない境地。
それこそが私の教え。
心は自ずから立ちのぼり顕れる。形となって顕れる。心の在り方が存在の形状を現す。
純粋な心なのか?。それとも煩悩にまみれた心なのか?。
心は六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・神)の姿をもって顕現する。
だから自分の現れを観察する必要がある。
仏の心なのか?。それとも餓鬼の心なのか?。
リアリティーを映し出す目を持つ人に嘘やごまかしは効かない。
みなバレている。道ならぬ道を歩む外道たち。
真実を歩いていると錯覚している異教徒たち。
聖道とは、いかなるものなのか?。
本来、心は誰でも清浄であるとは言っても、妄念に、執着に心燃やしている人の心のどこが清浄であるといえるのか?。
聖道において清浄な心は一切妥協無し、心に妥協があったのなら聖道を歩いていることにはならない。
心において一切妥協無しの生き方、心を清め高める徹底した生き方が求められる。それは言葉によって決して語られることはない。
直球で、真剣に生きる、それが私の生き方。
与えられた喜びより、与える喜びの素晴らしさ。
大いなる悟りを得ることがどれだけ難しいか?。
マハームドラやゾクチェンの瞑想を修せずして心は解脱することは有り得ない。
仏教的異教徒たち、外道の人々たちの瞑想は真理(リクパ)に結ばれていない。
この現実を認識しなければならないだろう。
存在の消滅
もうこの世に私は、概念として、人の意識として、存在していないし、もうこの世に幻影としてしか存在していない。
昔、流行った「NSPの影踏み」みたいだね!?。
何もないものをつかみとろうとしてはならない。
もう存在は消滅し、カルマ的顕現しか残されていないのだから。
あぁ~、あのとき、トゥーゲルの修行を終えたとき、もうすでに、存在はすでに消滅していた。しかし、残さたものたちのために今幻影としカルマ的顕現、つまり、幻身として復活して縁ある人々の前に顕れて、教えを説いている。
もう既に逝ってしまっているのに、解脱しているのに、その真実を解って欲しい。
その虹の光の残映のみが存在の投影として諸葛亮孔明のように死した人形のように概念として存在しているだけ。
今を解脱に向けて本気に生きている人々へ、幻影を追ってはだめですよ。真実を現実を追ってください。
どんなことがあろうと心計と離れた裸のあるがままで生きて行くしかない。
どうやっても真実をみたものは、自らの清浄な自性を穢すことなどできないのだから。
行き着くところ、無造作で、心の緊張から離れた、ゆったりとした落ちついた心境。
何かを為すことなく、自然のままに、何かを求めなくとも、自然に与えられる。
恩恵、虹の光、虹の灯り、掻きたてるものなど、なにもどこにもない。
本質が顕わに輝いて戯れているだけ。
どのように概念を壊しても、さらに壊しても、本質はなにも変わらない。
嘘は微塵もない境地、嘘は一目でバレてしまう。
評価さえしなければ、端然とあり続ける。
排除する必要すらない。成果を追わないことだ。
そこで出された結果は、まだ宙ぶらりんの結果に過ぎないから。
時間系列(八字)に属さず、成果(運勢や方位)すら求めなければ、こんなにも気楽に過ごせる。
概念のパラドックスに陥ることなく、坦々としている。
いそいそしたり、焦ったり、慌てたりせずに、安心して生きていける。
何ものにも制約されることなく、無理をせず(勉強)にあるがままにある。
他からの概念の嵐からの影響も受けず、悠々としている。
作り上げられた理想や夢を追うのではなく、本質を抱いて生きよう。
そのとき、誰がなんと言おうと、本当に偽り無く、輝いているはずだし、心の本当の底からあふれてくる輝きと叫びは絶対に時間系列など制約されないのだから。
心が決定するのでなければ、なにもはじまらない。
教えを抱いているだけでは、なにも変化はおきない。
自分自身が必ずできることに決断する。
きれい事だけではないけれど定められないときもある。
一対多は物事が粗野となり、個の注意力が散漫になるため合理性を追求しても細部に繊細さを欠くことになる。(品質の低下)
一対一はありのまま、お互いに鏡に真実が映し合う。勝負の支配の優劣は一瞬にして決まる。だからこそ互いの個々のカルマの負債や器の融合が問われるのだ。(まったく理解していないものもいますがね。)
多対一は、個の有りようが批判されるので、個が自覚すれば、成長と進化を余儀なくされるはず。(品質の向上)
人間の本質や自性を測ろうとすることなど所詮無意味なことといえよう。
それはあらゆる限界や規制から自由に戯れているのだから。
どうにもままならぬ運勢のときにどう対処すべきか。
わずかな光明のためにすべてを捨て去る必要がある。
なにも決定もできないで、押し流されていく人生。
よりどころを求めてしがみつこうする人々。
執着に定着しているままで、そこに安住などない。
明日その保障は露と消え去る。保持するものなどなにもない。
なにかに執着し、依存しても空をみるだけ。
二元論の中には、安らぎもゆとりもない。それは一時的なもの。
すべては露と消えていく人生。
求めるものは、なにも得ることなく、すべて泡と消え去る。
そこには、求めたものにリアリティーが元々無かったのだ。
なにもない妄念が生み出した僅かな希望にすぎなかった。
自ら描いた幸せは幻影にすぎなかったことをいま覚る。
自己顕現である自らのカルマが戯れているだけで、どのような対称を置こうがなにもかわらないし、どうのように顕れようとも一味だ(皆同じ)。
自らが変わらない限り、自らの見解を変えない限り、人生のどうどう巡りを繰り返す。
本人がそれに気づくのは、死か人生を完全に捨て去ったときだけだ。
未来は常に見えてくる。どんなにつらい人生であっても、いまがつまらない我慢しなければいけない人生であるならば、捨て去ってしまおう。
捨て去ることなどいつでもできる。しかし、そこに本当に大切な真実あるならば、勇気をもって捨て去れ。
もともと、なにもなかったのだから。概念が妄想が自分本位で生み出した人生希望図だったのだから。
だめな人ははどうあっても、どうやってもだめな人なんですね。
思考することがすべての禍いを産んでいく。ゴタゴタ。お節介から災難に。すでに煩悩で狂っている。
思考パターンが問題ではなく、智慧に根ざしていない思考が問題だ。
それを覆すことはできないのか?。
それがカルマであるし、自らに足枷の限界を課してしまっている。それが世俗八法が説く外道の道なのだから。
解脱に信を持ってみとどける。この解脱の体験がない人々こそ悲劇であるいえよう。
だからATOizmは解脱を説き続けるのだ。
解脱をまったく知らない人々に向けて解脱を説く。
自らの法性に辿りつくこと。それが禅の道(セム)だ。
自らの自性に行き着くこと。それが法界の道(ロン)だ。
自らの慈悲に終着すること。それがニンティクだ。
仏の三身を身に纏った人々に、もう限界も、泣き言も、愚痴ることすらないだろう。
完全にブッタとしてあらゆる概念を越えて、宗教すら超えて降臨したのだから。
その証として身体と意識と言葉は虹のように輝いている。そうでなければ、それは偽りの教えに、つまり、外道の教えにしかない。
占いだけで満足していては、だめだ。
占いはすべてをかぶる。なぜなら心がそれを対称化するからだ。
だからそれを解き放つには、心が解脱に向かはなければ無理だ。
なぜなら、すべての幻影は我々の心が産み出してからだから。
君たちは本当の敬信のグルヨーガを知らないのか?。
そこにすべての存在価値が問われるといっても過言ではない。
師こそブッダであり、師の中に光明も慈悲もみえない人々に未来も解脱もありはしない。
グルこそブッタの化身であり、ブッタの智慧の輝きを代弁するものだ。それ以上のものが人生にあるといえるのだろうか。
なにもみえていない人々は、本当に大切なものを蔑ろにして、そのグルに布施すらせず、疑いに満ちて、尊敬すらすることはない、解脱の資量すら積むことを厭い、グルを汚し、そのような人々に一瞬たちとも解脱の機会も解脱の甘露も顕現しないのは当然なのだから。
占う行為に心を汚している人々に告ぐ、自らの心の穢れを直視しなければならない。
そういった君は試されているのだよ。
しかし、本当のグルはそんなものを要求も強制もしないだろう。すべての清濁を平等に無毒化するであろう。グルとはそういうものなのだから。
未だに外道の世俗八法の秘伝を信奉し、帰依している哀れな人々に解脱の機会など永久に訪れない、そのレベルの違いがどれほどのものなか知らないからだ。それが菩提心の教えなのだから。
リアリティーの本質を見誤った人々とはそういう人々なのだから。
存在の証明と存在開放をひたすら説き続ける。誰も理解できなくても。その境地にあるものしかわからないパラドックスだから。粛正は始まる。
それがATOizmであり、解脱唯一求道そのものだから。
すべての多様性が受容と拒絶に完結している。
その枠組みの輪廻を転々としている、マリクパの内にいる人々に悟りが与えられるわけはない。
なにかに依存(依存とは一種のかたわなのかも、ここでは身体的なものではなく精神的なものや経済的なものも含めたものだ。)した成功などありえない。いまのあるがままが映し出される。
頼るべきものはない。迷惑をかけてはならない。そうしているのは、あるがままでないからだ。
いけていない自分自身をみつめなおすしかないだろう。大切なことは、いかなる問題であれ、自己解脱させること。それが重要だ。それ以外の最善な方法はない。
現実とは厳しい。自分がやったことがどのような結果を生むのか。それを知らずに突き進むのは、智慧がないということだ。自らを映し出す智慧を常に持ち続ける必要があるだろう。そうしなければ、すべては自分の回りから去って行くことだろう。
自分のやったことに責任がとれないならば、責任がとれないようなことはしてはならない。必ず失敗する。自らの器と力量を根本的に理解していないからだ。
ゾクチェンを学びなさい。ゾクチェンの本を読んでみるのもひとつの救いとなるだろう。
頭で理解するのではなくて、心の本質でしかゾクチェンは理解できないのだが。
運命を見る前に、名前などの改名や、吉方位などに頼らず、まず自分をみつめること。自分の置かれている立場をみつめること。
人は自分の世界しか見えない。いや、みていない。誰もそれに介入などできない。
しかし、真実は写し出される。必ず自分のやったことは自分にかえってくる。
だから解脱させる必要があるのだ。
運命をなめてはならないし、うらないもなめてはならない。
そこにこそ智慧を発現を呼び起こすヒントがあるのだから。
リアリティーの本質を見る以外に人生はなにもないのだから。
だから嘘(非現実)を見てはいけないし、嘘に突き進んではならない。
自分のやったことがなにもみえていないとしたら猛牛が理性を失って突進するようだ、といえよう。
そのようなものに悟りの機会が訪れるようはずはない。
本物をみよ、その心眼で、本当に大切なもの、絶対に失ってはならないものは、常に見えているはずだから。
それが見えないことが人間の心であり、セムであり、マリクパなのだから。
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