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2010年9月
子平の研究 最前線
子平の研究が今密かなブームとなっているようだ。
それは、門派の子平、特に明澄透派の隠されていた秘伝が世に現れてしまったからだ。
その重要な核となったのが、今話題の渦中となっている透派初代が書き残したとされる『子平窮通律』という写本である。
筆者もこの写本の衝撃たる事実を最近知ったのだが。
筆者の子平の古典研究によると徐大昇が残した『子平三命通変』が透派子平大法の秘伝を産んだことは、原典の『子平百章歌』の食神歌に子平大法が引用したとみられる文章(四字成語)が出典されていることからも明らかであるが、透派の先代が書かれたとされる『子平修学無学訣』という書物も『子平百章歌』からの引用が多いことは筆者の研究によって既に明らかとなっている。
しかし、初代の『子平窮通律』は初代が書き残した命譜をはじめて書き記したものであり、その中で論じている干支の合冲の問題や五行の強弱についていままで一般に説かれなかった方法が採用されている。
これは、例外的な特殊な命式において採用すべきであり、すべての命式に適応して行くのは無理があると筆者は考えている。これは無学訣においても適応しなければならないと筆者は考えている。
奇門遁甲においてもいままで『奇門大法』の立座派の奇門遁甲は、一般に公開されることはなく、筆者は、その方法を吟味した結果、かなりの的中率があることを発見した。
これは『皇龍』のこれから出る最新バージョンによってはじめて世に出るといって良いだろう。
セムの浄化法
心とは何かと問えば?。
映し出すものと説く。
すべての対称を写し出す。
その対称に支配されて翻弄されるのか?。
それともその対称を自らの輝きと認めるのか?。
すべては、自らの心の在り方によって決まる。
心とはもともと清浄で清らかだと人は言う。
しかし、それは根源的な心を指し、我々の日常の心は汚れで一杯である。
汚れが極度に達したとき自己破壊と他者への破壊が起こる。死すまでその運動を繰り返す。
運勢の悪いときや不幸に逢ったとき人は、意識の穢れを増殖し、積み重ねる。
あるときやあるポイントに行ったとき、それが発動する場合がある。
それは我々の識にすでに植えつけられていたもので、それがときを熟して発芽したのだ。
識はカルマのすべてを記憶し、負債のすべてを記憶している。その負債があるからこそ我々は存在しているともいってよいだろう。それが運命というものかもしれない。
だから、瞑想して心を浄化するのだと説く。しかし、神々が為す二元的な瞑想方法では心は永久に解脱を経験することはないだろう。
日常的な心がもし汚れているとしたら我々はすべておいて自他共に対称を汚していることになる。
なぜなら我々の心はすべてを写し出し、それに受容と拒絶してしまうからだ。
そうして知らない内に我々はカルマを積んでいる。善行には誉れが来るし、悪行には裁きがやってくる。
一人の愚業はまだしも集団や団体ぐるみでやられたら眼をあてる閑もないだろう。
欲望に縛られている限り、その行いは、必ず穢れたものとなってくる。
これが我々の存在するルールともなっているのだ。
心の本性という非日常的な心が我々の根源の中にある。
それは日常的ではない二元的な思考に汚されていないものがある。
そこに我々の意識を常にもって来ること、それがセムの究極の浄化法である。
様々な物があったとしても心がなければそれを認識することはできない。
たとえその同じ物があったとしても心の方面によって多様な解釈や認識がなされるだろう。
その二つが我々の心の世界を構築しているといえよう。
現象諸法を心が捉える方法としてセムがある。
ありのままを写し描くために、セムはリアリティーの無いも、自性のないもを捨て去っていく。なぜなら幻影だから。
そこに顕然たる心の解脱があるのだから。
保持するもの。
あるがままに与えられたもの、天から授けられたものは、誰がそれを剥奪しようと無理な話。
高額な不本意なお布施は、その負債は、当人に無い場合は、支払い義務は発生しない。
福徳を真面目に集積している人々から金品を巻き上げて搾取しようとする愚かな宗教者たち。
あなた方に存在意義が果たしてあるのだろうか?。
神仏は見ているというけれど、自らが為した所行が正しいかどうか、自らの智慧を発動させてみる必要があるだろう。
それによってカルマの解消がされたのならば、布施をする意義はある。
しかし、何のカルマの解消もなく、人々を奈落の底に沈めようとする宗教家がなんと多いことか?。
悪しきカルマさらに相乗効果をもって積み重なる。
智慧のなきことが度が過ぎる。
所行は明らかになる。
滅びはすぐそこにある。
生き詰まる。
それが人間の運命なのだ。どんな崇高で有ろうが、人間というモードから脱出できないでいる限りカルマからの支配から逃れることはできない。
中途半端な超能力を得たとしても人間のモードにあるものたちは、六師外道のつまり、ブッタの手のひらの中にある。
六道の中の聖仙となること、それ以外に何の意味があると言えるのか?。
自らの本質と本気で向き合う勇気があるならば、必ずや答えは出る。
行くべき道もはっきりする。
覚悟と決意のない人々に解脱と悟りはもたらされないのだから。
無償で為した善意の行為に福徳はどんな場合であれ山積みされて行く。
それが功徳の資糧であり、つまり、ブッタの顕現の中にある。
これこそが本当の供養であり、布施だったのだ。
だから生きたグル・デバ・ダキニに、真心から、尊崇すること、供養すること、帰依すること、布施することが、無上菩提を生む、つまり、ブッタに目覚める結縁と必ずなるはずだから。
それ以外の解脱などは有り得ないのだから。
解脱への虹の階梯
心からセムから攻めるのか?。
法界からロンから攻めるのか?。
メンガクからニンティクから攻めるのか?。
ゾクチェンは、三部の教えのどれでも良いから三昧のバルドに趨く方法が説かれている。
三昧のバルドに入るためなら八乗の教えである方位も風水も十分考慮するすべきであろう。
現代においては、瞑想センターや寺院や禅寺のみが良き瞑想のフィールドとは言えないからだ。
さらには、教えのレベルや階梯であるあるところの内・外・秘密・再秘密の四階層の深みを理解していく必要がある。
ゾクチェンの教えでは、聞・思・修の三つの実践が重要であるが、まず人の言うことをしっかり聞こうとする態度は、基本中の基本となるだろう。
そして良書を読む必要があるのだが、ほとんどの人は、自らが限られた見解の中で、その本を読むので、どこまで行っても著者の真意を理解することはできない。
死した著者なら仕方がないが、生きた著者に直々に面談したとしてもそれでも不可能だ。そこにこそが我々の持つ人間の意識(みんなそれぞれ異なる識をもつからだ。)の限界なのだ。
コミュニュケーションには所詮限界があるのだ。
なぜならば、我々はその限界概念の中で封印され活かされているからだ。
その限界をどう受け止めて行くのか?、これは、政治や世事やそれに対した占いや宗教に限らず、人間が生き残るための最重要テーマであると筆者は想う。
お互いに解り合おうとすること、譲り合うことが、どんなに困難であるか?。
戦争紛争・宗教紛争・家庭不和など、数えればキリがないこの世の中の紛争の根本は解り合おうとしない、譲り合おうとしない、我々のこの頑固な心(セム)にあるからだ。
武装兵器やテロリズムを説きそれを行使してしまう人々の心とは、裏を返せば人々がより解り合いたいという人間の心の本音(本質)が投影されたものではないのか?。
その隙間を無理にでも埋めようとする根絶意識が、戦乱を産みだすのではないか?。
我々が個としての自らの利益と自らの幸福しか、もし考えていないとしたら他を排除する戦争や宗教紛争は永久に尽きないだろ。
それが、もし、その限界を打つ破ることが出来たのだとしたら、それを奇跡と呼ぼう。
人はされたことに対してその記憶は残っているけれど、自らが為した愚業の記憶を忘れ去っている、それが問題だ。自らの断罪を隠し通して輪廻転生しているのだから解脱できない訳だ。
なんの開放も浄化もされていない意識、それこそが輪廻の正体だ。
我々が駒に過ぎないとしたら三国志のレッドクリフの再来であるといえよう。
その駒が諸葛孔明のような働きをするのか、それとも単なる歩兵としてこの世を去るのかと?。
再リターンマッチ
ここ2000年を前後を起点に10数年間に渡って無謀なる聖戦的求道とも呼べる外道を含めた修道の啓蒙活動は盛んに行われた。
しかし、今その自然淘汰が白日のものとなってきた。
嘘をつき続けた外道教団は、解脱詐欺を認めた。
今世において解脱は不可能だと。
ある教団に所属していたある人は、その教団の秘法をすべて試し尽くしてみたが一時も救われることがなかった。(それがその人のカルマだったと言ってしまえば、その責任から逃れられると想ったのか?。君らの為したカルマの負債は顕然とこの世に明らかとなった。脅しではなくもう逃げ場はないのだよ。事実からは。その被害者はみな霊媒体質となって、昔でいったら狐憑きの状態となっている。それは現実の生活に支障を来した一種の精神障害で病んでいる状態である。これは『ダキニの護符』によってある程度解除可能だ。)
いじればいじるほど穢れていく水のように。放っておけば自然に水は清浄になっていくもの。
その人の場合は、その教団と拘わったがために自らの寿命、つまり、死期を速めたといってよいだろう。
なにひとつ、真実のリアリティーを見ることができなかった両者の悲劇。
訴えようにも死して何の供養も施されない哀れな姿。
本当はその両者とも同じ苦しみの境涯にあったのではないか?、つまり、餓鬼に。
根本は、本当のグル・デバ・ダキニを見極められなかったあなた方にその責任がある。
いつまでも責任を人のせいにしていてはダメだ。(魔境教団の被害者は、それを認めず、未だに不平不満や何の菩提心も慈悲にも目覚めなった悲劇の末路に住している。)
自らが責任を、その汚された不条理を、そのカルマの負債を晴らすこと、そこに菩提心と慈悲があるのではないか?。
なぜ誰も立ち上がろうとしないのか?。(欺瞞の渦中にいる人々や哀れな宿縁を断ち切れないでいる哀れな人々へ。)
自らの断罪と限界を認めることだ。
そこが滅びと再生のターンニングポイントなる。
真実に出合うことは、こんなにもハードルが高いのか?。
しかし、それを乗り越えて来ることを待ち望んでいる。
真実のグルとはそういうものであり、必ずやあなたに微笑みかける。
それが真実の慈悲というものだ。
だからこそ、懺悔し、改心し、浄化を果たすこと。
そこからがすべてにおける出発点なのだから。
教えによって人間はどこまで自らの固定概念である自らが作り上げた概念の我が家を倒壊させ、自らが犯したカルマの断罪を解放し、より無垢なる神仏の境地に近づくこと、つまり、完全解脱するにはどうしたらよいのか?。
我々が現代に生きるこの世のモードではない如来や菩薩や明王や神々やダーキニーたちのモードにどうのように我々を遷果させるのか?。
それにはまず、我々の心(セム)から大変革するしかないだろう。
我々の意識を裸(あるがままの)の空に、我々の各個の意識を完全なる裸の明知の空に置いて、要訣を、撃つことで、意識を浄化に、解脱に導く可能性はある。
すべての問題は我々の意識がすべて写し出している。
その苦しみの根源を絶つには、何らかの心計をもったものでは、外見や見せかけの浄化は出来たとしても、根源であるところの自らが為したカルマによる根本的な汚れと負債を解消することはできない。
一個人の過去世のカルマだけではなく、家のカルマ、家系のカルマ、土地のカルマ、つまりは、本人以外の家族や遠縁の親戚だけでなく、土地のカルマすらも、のしをつけて本人にダメ押しで、のしかかって来ているのだ。
それが個人の運勢や家相や墓相の風水にまで悪影響を与え、個人に歪められた不本意な運命を、そして家族に、一族に不条理なカルマの負債をみな何も不平を言うことも強制されて今世でその高額な負債を支払っている、それが我々の悲しき運命なのである。
ある宗教概念によって固定なるある一部分を成就法によって浄化する方法(境(ロンといえるのか)を封印する方法や大印や後期密教の方法)を用いて導いたとしても根源的な浄化は果たせない。
なぜなら、究極の密教の解脱法をもってしても我々の煩悩を解決することはできない。
なぜなら、人間として我々が今世に存在するには、煩悩と人間となるべきカルマがなければ存在できないからだ。
人間であるがゆえに背負う運命だから。
その矛盾の開放をゾクチェンの教えは求めたのだった。
個人、家、お墓をもし浄化出来たとしても問題は山積みだ。
問題は、すべての意識が浄化され、来るべき自らの死に向けてどのように対話し、準備し、対処していくかが仏教の最重要課題であると『チベット死者の書』は説く。
それは死して尚、仏となるか?、それとも六道輪廻と呼ばれる再生のバルドに向うのか?。
今世で行った意識状態がそっくりそのまま来世に向かと考えている。それが人間としての究極のリアリテーが待ちかまえていると説くからだ。
だからこそ、現代に生きる我々は、生き残る為に絶対にリアリティーのないものを追ってはならない。それは解脱を阻み、それは我々を迷わす幻影だからだ。
だからこそ、シュリー・シンハは『クンチェ・ギェルポ』で、蜃気楼を追う鹿はいないと説く。
グル・パドマ・サンヴァバァは説く、世の中の世事に熱中している閑はない。なぜなら、人は限界概念の中で生き、肉体的な死はもうすぐそこに忍び寄ってきているのだから。
天寿を全うせずに、志半ばで逝ってしまう人もいる。
それが概念による世事に拘った概念による自殺と言って良いだろう。
そのような人々の心は悲しく幽閉された独りよがりのテロリストと言わざるを得ない。
本当に愛していない人を愛せないように、人間とは、概念に縛られてしまった人々なのだ。
しかし、本当に愛し合える、いや、その器に値するグル(どんな人間関係や動物や物や印象やそれ以外のくだらなくても何ででもいい。それが当人を奮起させ覚醒させ悟り導くならブッタだ。)と呼べる人に出合ったのなら歓喜が生じるはずだ。
それこそが歓喜天のヤブユムの神々が言わんとする密意なのだから。
だからこそ、マハームドラやゾクチェンの瞑想法が重要な意味を持つ。
しかし、極度の意識の汚れやカルマの負債が大きい不徳の弟子たちには、その秘宝を理解し、実習する功徳すら持ちあわせていない、つまり、資糧に、解脱すべき資質に欠けているからだ。
加行はそのためにある。
心を浄化するために行うのだ。(どんな求道であってもそこからすべてがはじまる。)
心が浄化されていない内は、どんな手だても悪しき方向に向かうだろう。
しかし、その加行すらできていない人々が今世において解脱を求めることがすでに問題だ。
意識の家が倒壊出来ていない人々が、いくら悟りや解脱を求めても水泡に化す。
それをマーチン教団やキリ教団が証明してくれたのだから。
自らの本質と来るべき対話をする修道システムとしてゾクチェンの修道は、顕然として現代に顕現した。
もちろんハードルは高い。それをちゃんと教えてくれるグルすら存在しないのだから。
見方が変革すれば、意識も変わり、心もまったく今までになかった顕現を産み出すだろう。
概念すらすでに超えた見解を有すなら、必ずや自らが課している限界を乗り越えることは可能だ。
なぜなら、ゾクチェンの修道の見解であるところの基・道・果は、人間の存在モードである身・口・意をそっくりそのまま虹の身体を持つ存在モードの仏神へとこの空間へと遷化させるからだ。
生きたバルドの道を歩む我々は、対称化される自己顕現であるところの対象物、或いは人者に対して何らかの感謝や尊敬や崇拝し合いながら助け合うことがなければ、互いが共存し、生き残る術と道はないだろう。
その対称である、彼、彼女、またそのそれぞれを、
師(ブッタ)と想えば、師(ブッタ)となる。
占い師と想えば、占い師となる。(それがたとえブッタであったとしても。)
恋人と想えば、恋人となる。
家族と想えば、家族となる。
あかの他人(縁無き衆生)と想えば、あかの他人(縁無き衆生)となる。
嫌われ者と想えば、嫌われ者となる。
その対称が一時、一会であれ、ブッタである場合は、尊称として崇めるべきであろう。
しかし、それを自らの所有物だとか関係のない人だとか最悪には迷惑をかけた頂本人などと思って、その対称を汚したりしたなら大きなまちがいである。
たいへんなバチが当たることになる。
存在する意味、対称化するには非常に大きな意味がある。
それを真摯に受けとめるのか?、それとも思い違いするのか?、目の前にブッダが現れているというのに!。
その対称にブッタの輝きをみることができれば、自ずと畏敬の念が溢れてくるはずだ。
勘違いしてブッダと争えば、悲劇が訪れる。
ブッタを知らない土着の神々や外道の人々と争ってもしかたがないことだ。
異常なまでの搾取や人道を越えた道ならぬ道を歩む人々やリアリティーを完全に見誤った人々には必ず滅びのときがやってくる。
改心が必要だ。これが本来の倫理や道徳であって本人の心に大きな問題があるといえよう。
その行為はまさしく当人の意識から自然に溢れ出てきるものだから心を大きな問題としなければならないだろう。
その渦中にある人に告げる。
悟れなくても覚りなさい。それが筆者の助言だ。
断罪
おのが罪に気づこうとしない輩たち。
その罪をあがなうときは必ずややってくる。
いま苦しんでいる人のためになぜ断罪しないのか?。
それがあなた方が救われない大きな原因だ。
なぜ懺悔し、反省して心を入れ替えようととしないのか?。
自らのその歪んだ顔がみえないのか?、それとも自らの道ならぬ顔を直視しようとしないのか?。
時は流れ、死が訪れて、生きながら罪をあがなうチャンスすらなくなることをなぜ理解できないのか?。
今がその絶好の時なのに、なぜ実行しようとしないのか?。
哀れ、愚かな人々に誰も救いの手は差し伸べられないのだから。
自分たちが魔の教えを信奉する教団であることを認めることだ。
魔界仏界同如理とはいえ、そこから離れること、善悪や執着や嫌悪から離れることに意味があり、皆同じではない。
所作タントラレベルはまだ発展途上の教えであり、完全なる教えを説いたものではない。
それに満足していてもその教えの概念に縛られていてもダメだ。
自らが信奉する教えがどのレベルにあるのか?、それを知り、理解する必要がある。
最高だと想った教えが実は最低の教えであったり、まったく眼中になかった最低の教えが実は最高の教えとなる場合がある。
自説のその師匠の自らが提唱する解脱成仏が最高であるといくら唱えても言行一致しなければなんの意味もない。
思い込みの解脱成仏やマジックやトリックの解脱成仏を説く輩は世の中に万といるのだよ。
それは顕現を映し出す鏡の意識によるパラドックスによって個人差があることは否めない。
心を込めて純粋に観ることだ。それを見解と言う。見解と現象が一致したのならリアリティーの本質を垣間見た、つまり、心眼で、現象を見、その真実を顕わに掴み取ったといえよう。
自己満足の見解では、洗脳された顕現を打ち破ることはできない。
道や覚りを求める人々に告げよう。
概念的洗脳を打ち破り、真実を観る智慧の眼を育んで欲しい。
そこにこそ、覚りの、悟りの、終着駅がある。
だからこそ、筆者は、自らが会得したゾクチェンの教え、つまり、私(ローカルロジック)の異端とも呼ばれても仕方がない教えを説き続ける。
ローカルロジックからオールロジックに向かう、つまり、個から普遍を目指す教えを説き続ける。
それが個として顕現した私(ブッタの化身としての)の存在意義だから。
(魔境教団(外道)を撲滅し、根絶するまで命ある限りその断罪とその汚れとに筆者は戦い続ける。勝利の日となるまで。それが筆者のカルマの負債を解消するレッドクリフなのだから。すでに被害者であるその魔境教団が搾取し、汚した善良なる人々数名を確実に救った。筆者に救いを求めるならば、その魔境教団に汚されたすべての人々を浄土と呼ばれる彼岸に渡すことを成し得ることができる。それが筆者の決意でもある。それが筆者が苦心して体得し、会得した私なりがゾクチェンと呼ばれるグル・デバ・ダキニが個人的な悟りに直接武装介入する聖なる教法なのだから。これ以上の教えはこの世に存在しないだろう。なぜなら、教えという概念すらぶっ飛んでいるのだから。それがダキニの教え。。。)
生起した問題に対して真剣に向き合った人は、それなりの成果を期待することができる。しかし、いい加減に適当に対処した人には、期待とは裏腹の反対の不幸がやってくるだろう。
人が真剣に忠告を発しているのに、その真意をまったく心を開こうとせず、断固聞こうとしなかったものたち。
良いアドバイスを聞いたとしても、それを実行できないでいれば、残念ながら、死はすぐそばにやってくる。(脅しや恐怖に関係なく。)
理想を追う人々。人を貶す人々。
道は二つに分かれた。解脱開放を求めた人と、煩悩と妄念と搾取を求めた人々。
答えは、明らかとなった。救いの手を、対称をブッタとして、崇めるのではなく、欲望の対称として相手を汚すことしかできなかった者。
ブッタをなめた人々の末路。
師にブッタは降臨する。師の中にブッタの輝きを見出せなかった愚か者。
そこに生死は分かれた。
師は弟子を彼岸に渡すことに成功した。
しかし、大きな勘違いをした煩悩の住人には最悪の結末を迎えた。ダーキニーすら匙を投げた。
その意味を深く、噛みしめなくてはならないだろう。
救うべきブッタの化身がお迎えに来たのにも拘わらず、なんの感謝も謝礼もなく、神聖なるブッタの存在を詐ることしかできなかった三悪趣の住人たち。
三悪趣に堕ちるのは本人の自明とはいえ、あまりに哀れすぎる。そこには神も仏も天使すらも否定されるから。
バチが当たったのだ。それは自らのカルマの負債が熟した結果にすぎない。
それは自らが背負いあがなわなければならないカルマの負債なのだから。
マーチンもそれに同等な魔境教団も同じ道が用意されている。
だれも彼岸ではなく、魔境の三悪趣の住人なる。なぜなら、その方法が欠けているし、解脱に信をもった修行がなされていないのに、霊験あらたかなグルもダーキニーもデバも不在なその集団の中で、誰が解脱成仏できるというのか?。
三宝をなめた教団がどうして解脱の結縁を得ると言えるのか?。
グルヨーガすらできていない、師より破門されるような傲慢教団にブッタが顕現する訳がないはず。
仏教を根本からなめきっている集団に外道集団と呼ばれる十分な条件が揃っている。
明白だ。そこに拘わった霊的憑依は非常に深刻な問題となっていることを当の当事者は本当に理解しているのか?。霊的犯罪があったとしたら絶対に裁かれるだろう。
だからこそ社会に与えた責任を取って欲しい。本当の善意と仏心があるならばな!。
帰依と懺悔はそのために真実として顕然する。
だから、残念ながら本当のグル、デバ、ダキニしか今ある最悪の状態を打開することはでない。
そこれこそが真実なのだから。
かぶった祈祷師や宗教家になんの浄化とポワができるといえるのか?。
リアリティーとは、如実に顕れる。何もとれていなかったのだ。誰も成仏していなかったのだ。(それを解脱成仏詐欺というのだけど、そもそも解脱成仏させることがどんなに難しいことなのか、それすらまったく認識すらない愚かな輩たち。)
そのものはグルでも導師でもブッタでもない。
人を迷わす外道に過ぎなかったのだ。
その煩悩と罪垢と罪悪と不幸を飛び込む魔の波動を善良な人々に感染させないでくれ。
その存在とその行為がすべての人々を汚し、不幸へと追い込もうとしている。
その犠牲者を筆者は数多く観た。これが外道の所行なのかと。
今起きた現象にすばやく対処できたならそれを認めよう。
ごまかし、偽り、幾く人がその犠牲にあったのか?。
偽りのグルを信奉した人々の悲劇。
断固拒絶すべきだ。なんの功徳の無いものを追ってはならない。
目に見えないものだから判断は難しい。が、しかし、人間の真実を観る本当の智慧の眼でみることができるなら一目瞭然だ。それはいつでも見えるというわけでなく、純粋に心を込めなければみることはできない。
それが見えないこと、いや、みようとしないことが重大な問題だ。
なぜなら、その双方が、なんの悟りにすら到っていないからだ。
末期のガンによる死亡。過去世のカルマからの憑依による精神攪乱。借金地獄による経済破綻。最悪の人生のステージは、自己責任ではあるが、すべてが魔境教団が画策した悲劇の現象である。なんの救いすらなく、当事者から宗教的脅迫もしくは、宗教的慣習によって生命線である金品を搾取され、命を筆頭に財産や名声や生きる糧や希望さえすべて奪い去られ剥ぎ取られすべてを失った人々の哀れな姿。
カルマを解消し、解脱聖道させることすらできない外道の教えを説く者たちにおのが成仏するために布施する愚かで哀れな人々。
(筆者はそのようなものたち、或いは、そのような宗教団体を仏教的外道と呼んでいる。宗教概念ですべての人々を救えるなんてスローガンのようなものを立てることがすでに傲慢であり、無謀だ。まだアニメの宗教紛争の根絶を説く、私設思想武装組織の方がまだリアリティーがあるといえるだろう。)
常識や自らの損得などの限られた概念によって真実のグル(自らの本質・自分自身の本質)を測ってはならない。
真実のグルの自性を測ろうなどとそれは無謀であろう。
偽りのグルは抹殺される。生霊によって咳き込む。
これが真実なのだから。
いつまで世間を騙すのか?。自らの利益の為に。
責任を取りなさい。まず自分の否を迷惑をかけた人々に土下座して誤ることです。断罪し、罪をあがなうことです。それしかあなた方に選択できる道はないのです。
それができないというならもう人間として一社会人として存在する価値すらない。
完全なる滅びに向かっていますよ。
自らの愚業を認めないとするのならもう誰もあなた方に救いの手は二度とやって来ない。(これが最後の警告です。その尻ぬぐいを筆者にさせないでくれ。)
そして、その犠牲者を救うのは、真に慈悲に目覚めた真実の人、そこにはなんの見返りを求めない行為がある。それこそが真実のグルと呼べる人たちだから。
徳のある人たちの後に従いなさい。不徳の人々の後を追ってはならない。
なぜなら、そこには解脱も涅槃ももたらされないのだから。
だからこそ励みなさい。真実のグルまたは、徳ある人々と認められるまで。
智慧無き人々は思うがままに去るしかないのだから。
だからこそ観察しなさい。自分の姿を、自分の所行を、仏の心であるのかと?。
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