運勢はかなり盛り上がっているのに人生の花火の引火のように点火されていない人が多いようだ。どうも起爆剤の火力が足りないみたいだ。それともそれを促す何かが足りないのかも知れない。請け負いますよ。阿刀田達磨がすべてを背負ってでも(^_^)v!
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- 点火してますか?人生の花火に!
- 見誤ってしまうケース
- 占いって本当に信じて良いものなの?
- 阿刀田達磨の占いQ&A
- 台湾出張してきました。
- 子平の研究最前線
- 生きる意味とは?
- 人生の本当のスタートラインとは?
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2012年5月
2012/05/31 18:41:05
2012/05/29 19:31:46
本質が見えているようで、対象が現れているのに何をどう間違えて見誤ったのか?何かにとらわれていたり、ごり押しで生きていると大切なものを見失う。自分が主体で生きていながらも相手を癒せる人は、自分の自然な生活スタイルを持っている。それは何かの制約や強制をせず、相手の自由性を貴び、尊重していれば、必ず個の存在は誰らも重宝がられる。そういう存在が受容されることはあっても拒絶することは決してあってはならない。なぜなら、それをしたら我々の存在意味を根こそぎ略奪したことになるのだから。我々人間の世界で自分主体に生きていると、他を排斥したり、自分の鳥籠(ルールの強要)に巻き込んだり、すべて個人の自由性を略奪する方向にいってる。個人の存在価値が尊重される社会に限界はないと思いますが。 2012/05/20 4:33:03
占いは好きだけど、半信半疑であると言う人が多いようです。けど、うらないの基準がしっかりしていないのならこのタツマでもその占いを信じないでしょう。それは信じるという問題ではなく、自分で発見することに大きな意味があります。なぜなら、自分自身から出発し、見つけ出したものでなければ、何の役に立たないものになってしまうからです。 たとえばその紫薇で、天機と言ったら眉を象徴して、特に眉がそのひとの特徴の多くを語ることになります。占いによれば、眉が濃過ぎる人は多情で手先が不器用だとされています。反対に眉が薄い人は手先が器用で性格も繊細であるようです。眉はものごとを最後まで成せるかまたそのひとの臨機応変性を問うことができます。
2012/05/20 3:35:07
占いに関しての素朴な疑問や個人情報漏洩ギリギリ寸前の質問にもタツマがこのブログにてお答えいたします 。遠慮せずぶちゃけなんてもきいてみてください。奮って、ご相談、あるいは、ご応募くださいませ。アトダタツマは現在カバー曲のCD制作のためもっかカラオケ猛特訓中です。 2012/05/20 0:26:17
前にマメヒコでやったお茶会に大禹嶺ウーロン茶を持って参戦したのですが、今年は5月30日にできるそうですよ。大禹嶺が欲しい人は連絡くださいね。皆さん台湾でタイ式マッサージにはまってしまうようですが、タイ生まれの台湾のハーフの究極の子を発見しましたよ。 2012/05/15 2:40:32
子平の研究最前線 旧法(古典派・五行の強弱や格局に比重が置かれた秘伝・唐宋時代の子平の詩賦を集めたもの原典である徐大昇の『百章歌』が典故)10干関係を六親通変に12支関係を12長生に変換して命式を解釈しようと萌芽した時期でもある。形造られたのは『百章歌』がスタートラインである。滴天髄の子平の断片的知識や滴天髄の理論でもって古典の子平に挑んだが、しかし、五行的通変による解釈の色彩が非常に濃密であったのである限界概念の中で判断することになってしまった。 ☆子平大法(審事と六親通変と12運の奥妙を説いたもの) ☆子平洩天機(日主を挟んだ君側の体用の干関係の究明、詩的な表現による遊び心いっぱいの芸海)旧法と新法の解釈がある。 ☆子平窮通律(命譜の解釈) 富貴・貧賤・吉凶・苦楽の命の区別を行う。 子平錦繍集(古典派の子平を集めた陳素庵の子平・『百章歌』や『明通賦』『喜忌篇』『継善篇』が典故)透派式解釈 子平典故(古典派の子平に新解釈を加えた陳素庵の子平) 子平止観 内容不明 新法(新釈派・10干が主体となった秘伝・劉伯温の『滴天髄』が典故)10干の研究と究明を重んじた。 子平滴天髄(新釈派の解釈による王文沢の滴天髄の審事からなる滴天髄の読み方・陳素庵の『滴天髄輯要』が典故) ☆子平心得(新釈派から古典派に回帰したことで生まれた秘伝・『子平大法』が典故) ☆子平弁方録(『子平典故』が典故)子平参禅口訣の発展型。細部に渡って考察が加えられているが細かすぎて実践には不向き。星平合参して用干を求め星平会海としてみる方法を説く。 ☆子平参禅口訣(六親通変と12長生の新解釈、陳素庵の『子平典故』が典故) ☆子平授生訣(審事の新解釈) 新法の真骨頂。 ☆子平双対・鼎立・方角(2干・3干・4干の干関係) ☆子平修学無学訣・無学訣命理五訣(王文沢)・無学訣注釈(王文沢)(無学訣は作者不明、『欄江網』が典故) ☆以上の子平の秘伝と口訣を統合する見方、つまり、大法系(無学訣を含めた旧法と新法の子平)、参禅系(喜忌のランクをつける見方で鉄筆断とも呼ばれる)、洩天機系の三種の子平を統合して新たに富貴貧賎吉凶を設定して古典の百章歌とはまた異なる子平の価値基準を外部に作り上げたものである。 子平の二つのアプローチ法 旧法 大法 心得 大運、流年の解釈から命式の干関係に回帰する方法。通変をキーワードにして本来の作用をなさない干関係や命式構成を消去、減点法によってある一部の命式を特定して行く方法。蔵干通変が天干に昇ったものを年月日や日時の関係から貴命を算出し、特定して行く古典的方法。 新法 授生訣 その他 干関係を主体にして強弱の関係や通変の意味に起動修正を行う。体用理論によって干関係の意味を後付けして行く方法。干関係から貴命を割り出す新釈派の方法。 実例 美智子皇后さま 戊甲甲甲 百章歌の正官歌 第一行目 正官須在月中求 無破無傷貴不休 玉勒金鞍真貴顕 両行旌即上皇州 正官はすべからく月中に在るを求め、無破無傷は貴休まず。玉勒金鞍は、真に貴を顕し、両行旗が即、皇州に上る。 成婚の大運 辛 正官格が成立。 子平大法の解釈 日干甲木と節気蔵干の辛金を相対して正官格となる。扶抑用神は、財が多ければ比劫を喜ぶ命式である。 新釈派の子平心得の分析 時柱の戊土を大運の辛が洩財で洩らして甲甲甲の森を護った。辛の大運は甲甲甲の関係に戊土の傷あるものを見事に崩した。忌神は毀してよいという理論。つまり、辛運は、甲甲甲の良さが強調される運であるといえる。(護比劫は、一般には忌官殺の命式に使われのだが)つまり、今まで悪い環境や条件をもったものがその五年間だけ一時的に改善されよくなったといえる。つまり、結婚に向けて準備することが出来たといえる。 新釈派の方角では、甲甲甲戊は「青山隠々」となる。喜神の甲が3本並ぶことがすでに大貴命となる。しかし、いつ皇帝がお迎えが来るかという時期が当たっていない。つまり、命式+運勢で見て行く古典の格局の子平の方がそれを明確に映し出している。10干主体の運勢で見るのならば、なぜ喜神の甲木で成婚されなかったのか、また甲が3つ在っても蔵干が正官でなければ果たして皇后になれたのか、その事実が答えである。つまり、格局と10干を分解して作った理論は、格局ベースから10干レベルに展開することで高度な判断ができる。しかし、格局を無視して10干だけで判断してしまったら恐らく的中率は半分以下になるだろう。 通変の喜忌の程度に関係する意味 喜比劫 人望と協力者と健康(実行する能力) 忌比劫 世捨て人 喜神で強い。内実ともに良い。真面目にコツコツと努力して得ていく。吉神太露の運のときは思いもしない僥倖に恵まれる。財庫や官庫が開くともいう。 もし喜神が毀されていない命式ならば、喜神が強められた運に得られるものが得られ、喜神が取られる運に得たものすべて失う。 この通変の喜忌の強弱関係を基準にしてさらに干関係によっては通変の意味の多少の軌道修正や価値や意味の修正が加えられる。 個人の命式の喜忌の強弱の基準点によって個人の命運によって起こる吉凶現象がただ戯れているのに過ぎないのが自己観察できたならそれを人は運命と呼ぶ。 命あっての運であるので、教訓として今得ようとして一生懸命追い続けているものが、得られる可能性が絶対にないなら今の自分は蜃気楼を追う鹿のようだ。リアリティーのない幻想をともに見たと言えるだろう。高額自腹を支払ったか、普通かで吉凶が決まる。 結婚の見方のランキング 女性の子平命式 官殺 喜神 強い NO1 ベリーグッド 縁談は成る。良き夫となる。命式が良ければ可。内格の身強の命式。 男性の子平命式 財 喜神 強い NO1 ベリーグッド 縁談は成る。良き妻となる。命式が良ければ可。内格の身強の命式。 忌食傷で強い 問題を起こす。 子平における認識活動は、机上の空論では決して到達できない。書物や誰かが言い出した概念認識が生み出した産物をいくら論及しようと真実には決して到達しない。なぜなら実体験し、実際に発見して口や肌で味わったものだけが真実の知識となる。それが悟りというものだけれど。 2012/05/15 2:35:01
生きる意味とは? 存在の源泉を知るものは、生きていながら、もうすでに生の究極のすべてを享受し尽くしている。 あるがままで完成という言葉には、すべての甘露を享受し尽くした歓喜が込められている。 人生を享受し尽くしたものに、いったい次は何を求めよと言うのか? 汚れなき自性をどう間違ったのかそれを汚がして生きる人々へ。 汚れなき自性を汚さない生き方が求められる。 それには、心計や作為の無い行為を生み出す智慧が根本となるだろう。 一時の幸福に酔いしれることなく、かといって苦難の渦中で絶望に到ることもない。 独りよがりや何かに拘ることなく、多くを求めずにあるがままにある。 輝きは外部より自己顕現として顕現する。 輝ける存在の出現は当人の輝きに多くの影響を与える。 対象を引きつける魔力のような力。 妖艶、美貌、ハンサムのような輝きに翻弄されることなく、反対に冴えなく、醜く、愚直なまでに拙い輝きにも動じない境地。 サマヤ誡を解除し、脈管の穢れ、ルンの穢れ、テイクレの汚れを完全に浄化しなければ、本当に意識を浄化することにはならない。 一瞬できたとしても根本的なアーラヤ識の汚れを浄化するには至らない。 ノドが詰まって変な咳をするのは、密教が重要視する脈管・風・滴のその三つの汚れの極地を現す顕現なのだ。(その汚れが取れる時期があるようだ。なんでもかんでも汚れを浄化しようとする行為もまた誤りだといえよう。) 何を言ってもいいし、何をやってもいい。また何を持ってもいい。 しかし、カルマの痕跡を意識に残してはならない。(具体的なものとして対象化しないことだ。) このままカルマの痕跡を積み重ねれば、それは自らに数倍になって返ってくる。それがカルマの法則なのだ。 そのためには常にリラックスするテクチュウの修行を行って意識に痕跡を残さない行為をすべきだ。 意識を常に開放しながらしゃべったり、食べたり、行動しなければ、その行為は自他を共に悲劇の限界の中に追い込むだろう。生老病死は人に苦を与えるように。なぜなら時間の流れの中に意識を置いてしまっているからだ。 顕教レベルや密教レベルの教えとは言え、教えを概念だけでただ指でさし示しているだけでは何にもならない。一生その無意味な概念をその舌や筆で一生回していくのか? 教えを超えたダキニーの悟りのお誘いを断り、また外道のダキニーと同盟を結んだとしても解脱に遠い。悟っていない存在に救いを求めとも無駄である。(密教やゾクチェンの教えのある修行の段階で、ダキニーは必ず修行者に接触してくるが、その修行者の悟っているレベルに合わせて顕現してくる。それは当人の悟りに大きな影響を与える。それに失敗した人を筆者は多く見た。) 意味のある行為をしよう。 もし運命や前世が解ったからといってそれに固着したり、執着するのもまた誤りだ。 その運命もまたカルマの痕跡から導き出されたものだから。 現実を信じ過ぎないこと。現実を絶対だと思わないこと。過剰な過信は不信を引き起こし、人生で今このときに一番大切なものを見誤ることになるのだから。 この世に完全なるものはないのだからせめて自らの身・口・意の浄化の営みぐらはすべきだろう。 その浄不浄などというものを執取しようとする行為の外側に本当の悟りがある。清浄不浄というものを対象化していることが既に問題だ。 人間は誰でも頬を抓ったら痛いように二元的な状態に徹底的に収められているからだ。 自らのリアリティーと真っ向から向き合おうとせず、逃げ道ばかり探す愚かな人々。自分のリアリティーがどこにあるのかも解らずに彷徨い続ける人々。それこそが迷妄の輪廻なのだから。 言葉の中に秘められた本当の真実を掴むのは難しい。その掴めない理由を自分以外の外部に求めるのはさらに愚かなる行為だ。 人生が良くなることや悪くなることを心配するのではなく、迷妄の輪廻からの出離の念を発した方が遥かに素晴らしい。 自らが唯一絶対的対称性として輝ける道を見出すことだ。それが何であろうと苦労して手に入れたり、安易なものであってもいい。 苦労や努力はまだ自分がそのステージに及ばないのか?それとも自からの器を越えたステージを求めているのかもしれない。 しかし、それが人間という存在であり、三時を乗り越えてこそ人間たる化身たる存在価値が問われるのだから。 試されているのだよ。多くの価値観の中で本当に意味が有り、価値があることを見出すことができたらどんな状況にあろうと時間と空間や制約を越えてそれは人生においてそれを福と呼ぶべきであろう。 究極の絶対的対称性の中に求める真実を見出そう。そんなものが存在していること自体奇跡と呼ぶべきだろう。絶対に有り得ないのだから。絶対的対称性は絶対に存在するのだから。 世の中には上には上が、つまり、本当の究極の真実は存在するが、それを実際に掴み取れるかは、当人の器量に掛かっているといえるだろう。ほとんどがガセネタを掴んでいるのだから。 求道とは、自分の現在の状態を知って自らの人生と向き合うことであり、あるがままの自分を見出し、超越的なリアリティーを追うことなしに解脱を得るには、いかなる方法、つまり、いかなる道を求めるべきかが問題となる。 人間の限界思考を打ち破ろう。それがテクチュウのはじまりなのだから 2012/05/15 2:29:16
人生のスタートラインとは? 人生のスタートラインは「オギャー」と生まれたときではない。 自らの本質を完全に掴んだとき、そのときから本当の意味ある人生が始まり出発する。 それが何歳であるかは個人差があるようだ。初年や中年や晩年や死を迎える数日前であることもある。 それまではどんなに名声や地位やお金や社会的に誰もが認め現状維持できていたとしても何の意味もない。 まして美貌や健康やあらゆる至福を享受していたとしてもそれはすべて幻である。 なぜなら、それは、単に輪廻のカルマの負債を支払う過程の中で繰り越されたものに過ぎないからだ。 それらすべてを捨て去りすべて失ってこそ初めてその人は人生の本来の在り方に回帰するだろう。 それまではどんなに偉いことや大きいことを言っても空しいだけさ。 人生が自ら悲劇のヒロインや苦労や不幸であることを演出して自分を貶めたり、反対に幸福を装いながら本当は欺瞞だらけで自分に嘘ばかりの人生であっても何にも変わりはしない。共に本当のリアリティーを見ようとしていない偽りの人生なのだから。 そのスタートラインからどれだけ成長したのか、ただそれだけを見よう。 卍のブーミーのある段階に達して女神や神々や神仏が顕現したのか、それともまだ二元的見解に陥ったままいや増しに煩悩を噴出して生きているのか。(外道に走って不浄な顕現の中に在るのか、それとも仏性に目覚めて清浄な顕現の中に在るのかと。) 定型的観念に覆われている人々には理解不可能なこの教えを理解することは非常に難しいだろう。 拒絶して生きる人々は一生ある対象に怒りを発して拒絶し続けて生きて行くつもりなのか、それとも、受容して生きる人々は一生ある対象に貪り続けながら生きて往くつもりなのか。 どのような教えであれ本質に辿りついていない限り本当の人生と言われるものは何もまだ始まっていない夢の中の旅人と言えるだろう。 自らの本尊すら拒絶して生きる愚かな人々は煩悩やカルマに悲しくとも翻弄され続けられている人々なのだから。(我を認め尊重するという重要性を放棄してしまったのだから。) 生まれてきた意味すら理解できないまま、何の大勝負もしないままに次の生に転生する人々が残念ながらほとんどだ。 だからこそ自らの本質を掴むために真剣に命賭けで努力する必要がある。 なぜならその前に誰もがすぐに突発的なお迎えがやってくるからだ。 だからこそ自身を観察すべきだ。どのような状態に自分がなっているのか認識する必要がある。 一生自分が分からないまま終らないために自分から出発する必要がある。 自身を奮起する必要がある。 そして自らのグルである自分しかそれを発見することはできないのだから。 自らの意識が光明にあるとき、きっとすべてが輝きはじめる。 そこから本当の人生がはじまる。 時間と空間に縛られることもなくなる。 時間と空間の流れの中に意識を置くのはもう止めて、光明の中に意識を置こう。 だからこそ自らの光明を見出そう。 自分自身の潜在的可能性、つまり、仏性に。 |