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2009年5月
浄化を行うとするとき、密教的カテゴリーでは、概念の対象物を使ってより複雑なものや多様なものを使おうとすると、つまり、供物や物体化した本尊仏を対象に据えて、たとえ目をつぶって観想したとしても、到達すべき悟りのポイントともいえる心の本性に自らの意識を確立することは難しい。
護摩を焚いたり、あらゆる供養法を行ったところで、修行者は、心の本性に直接入ることはできない。まして心眼にロルパとして写った神仏を映像として対象化ものを祈祷したとしても、それによって菩提に触れたことにならない。それは単なる体験に過ぎず、我々のエネルギーの顕われの一端を見届けたものに過ぎないのだ。
そのような粗大なものを用いることは、到達すべき限界をつくってしまうだろう。ゾクチェンの教えが用いる白いア字の観想では、よりシンプルな我々のエネルギーの顕われに接近したものを用いることによって、よりリアルな本質にたどりつける可能性があるのだ。
あらゆる限界を超えるには、既存の修行システムや修行ツールすら乗り越えていくしかないだろう。
勝義諦、世俗諦といった二足の真理によって心の本性に到達することも、心の本性に入っていくことに壁をつくってしまうことになるだろう。
十の般若や十地は、もともと心の本性から自然に湧き出てくるものなので、あえてその行為を実行しようが、それを願おうが、また十二因縁を放棄しようが、その行為によって菩提を得られることはない。
物質や概念につながった行為によって菩提に触れ得ることはできない。なぜなら、菩提心とはそういうものではないからだ。
意味の無い行為、意味付けをしようとする行為、どのような行為も概念の皮膜を剥ぎ取らなければ、なにも真実の行為とはならない。
ゾクチェンというものを仏教的教え、哲学概念の中だけに閉じ込めてはならない。白日なものとして、あらゆる世界の道に通じる教えとして紹介していくべきであろう。
煩悩を増大させた行為
煩悩を放棄させた行為
邪魔がないという行為
邪魔が入るという行為
自己顕現が現象化したとき、どのレベルで現象が顕現しているかを観察する必要がある。問題が起きているならば、その行為の正否を観察すべきだ。正しいと思うのならば、断固として邪魔を振り払ってでも生きてゆけばよいのだ。またまったく邪魔が入らないことも問題となる場合もあるのだ。この正否は六大課によってその行為の正否を予報することは可能だ。
自らの覚醒を失ってしまった、自己を放棄してしまうことは、真の自分をなにかにあずけて生きることになる。それは自己の自由性すら失うことになるのだ。
大切なことは、自分としての個体性を失わないことである。
これを失ってしまったら人々は、なんらかの概念に支配されて生きていってしまうからだ。
全体性の中で自らの固体性を見出すべきだ、それこそが自らの菩提心の輝きなのだから。
人間を本当に覚醒させるには、人類を本当に覚醒させるには、
究極の原因の乗
究極の結果の乗
の二つの教えが必要だ。
いずれのどちらも欠けてはならない。
その二つの教えが人間の存在にとって一番ひつようなものなのだから。
現代においてこの究極の二つの教えを説くことが最重要課題だ。
それ以外の方法によって人類を覚醒させることは不可能だろう。
目標を駆逐する、意味のない教えはすぐに立ち去れ、そして棄て去れ。
そこに本当の悟りはないのだから。
あらゆる宗教概念と宗教行為を駆逐せよ。
そんなものによって悟りを得ることにはならない。
その行為を菩提に結びつけることが大きな誤りといえよう。
なぜなら、それを結びつけることは自らを欺くことであるからだ。
その教えそのものが菩提であり、自らの菩提を見出すべきだ。
究極の原因の乗である「六大課」と、
究極の結果の乗である「セム、ロン、メンガク、テクチュー、トゥーゲル」
の二つの教えが融合した教えを説くことにしよう。
この教えの根本は、ゾクチェンの教え並びにボン教の教えのエッセンスをも乗り越えようとするものである。
そのためにはすべての宗教概念を駆逐する宗教介入をも行使しなければならないだろう。
これが阿藤大昇の三国志でもあるレッドクリフなのだから。
原因の乗においては、六大課による戦略予報士、戦術予報士となり、
結果の乗においては、虹の身体の血脈のラマとして法を展開する。
これによってすべての教えを根本から駆逐する。
月に一回から二回において「ATOizm」の勉強会を行いますので、興味のある方はご参加ください。開催日時は、こちらの方位と時間と場所のからみから決定させていただきます。
参加希望の方は阿藤大昇古代中国運命学研究所のサイトのお問い合わせホームよりお申し込みください。
開催日時と会場と会費とをメールにて返送させていただきます。参加人数が少ない場合は、以前行った座談会形式となります。
第一回 ATOizm勉強会
「心の本性の導き入れによるリクパの体験」を語る
参考テキスト 『リクパのカッコウ』
阿藤 大昇
このブログで、阿藤大昇は、何をしようとしているのか?そして何故、阿藤大昇となったのか述べなければならない。
まず、すべての「魔の教え」を破壊することが、ATOizmのテーマである。魔の教えとは、占いで、言うならば何も真実を語らない占いなど誰も必要としていないし、究極の果である解脱に向かわない教えを平然と説いている人々にその鉾先が向けられているのだ。
その根本は、人間の心が概念化してしまった幻影の構築物をすべて破壊して、裸になったリアリティの本質を見ることに他ならない。
運命学やすべての教えには次の二つの乗り物がある、
原因の乗 存在の原理
結果の乗 存在の開放
しかし、この教えのほとんどが中途半端な教えが説かれてしまったので、大半の人々はリアリティの本質を見誤ってしまったのが今置かれた我々のリアルな現状だ。
人間が本来求める道も本来に帰すべき道もすべて情報操作され、行くべき道を閉ざされてしまったというより他ない。
ときには概念の教えに阻まれ、ときには、リアリティの本質を見誤り、対象に支配されたり、自らの煩悩に翻弄されて、自らの人生の意義すら見誤り、魔の教えに支配されることもあった。
筆者は結局、自らが行くべき道を見出すのに20数年間も人生のときを無駄にしてしまった。
今までであったどの教えも中途半端でけっして解脱や真実の教えを、真実の自分を写し出すものではなかった。
それはすべて真実にたいしての情熱や熱意が十分ではなかったといえるのだが、問題はそんな単純なものではなかった。
悟りとは、みな単純なものであると思われがちだが、そう簡単なものではなかった。深遠な悟りとは単純ではあるが、そう簡単に把握できるものではない。なぜなら、本人がリアリティの本質に至ったかといことだけが問題となるからだ。
リアリティの本質にしたがってリアルに生きるには、差し引き無しのあるがままの自分を見出す必要がある。
そこに至るにはどうも個人差があるようだ。つまり、過去世の輪廻における経験が大きな要因となっているようだ。
概念や常識によって否定したり、無視したりすることは、誰でも簡単だ。しかし、その本質を見出すには苦痛が伴う。その苦痛を本当に乗り越えたものが、本当の真実に出会うようだ。
もう一つ重大な問題がある。自己顕現についてである。今置かれた自分が、
リクパ(明知)にあるのか? 清浄な顕現を見ているのか
マリクパ(無明)にあるのか? 不浄な顕現を見ているのか
をはっきりと区別する必要がある。自分が今どちらの顕現に属して生きているのかを自覚することはたいへん重要だ。それすら意識できなければ、悟ることは非常に難しくなってくる。
顕教であれ、密教であれ、ゾクチェンであれ、存在の開放の教えを説いたものであるが、その教えのエッセンスのみを学べばよい。それ以上のものはその教えにはない。
サマヤ戒というのは、一種の精神支配によって引き起こされる現象であるといえよう。それは人間の良心を支配しながら罪悪感を増大させて当人に教えの魔界へと誘うものであるようだ。密教は、サマヤ戒を重要としているのは、心がテーマであることを悟ったからともいえる。しかし、そのサマヤ戒によって人の心を支配することは、根本的には無理があったのだ。
それは一種の精神的な契約(脅しや脅迫も含まれている)であり、それを破ったからといって罪に問われるものではない。悟るための一つの方便に過ぎないのだ。そこに悟りはない。悟る課程の方便なのだということを自覚しなければならないだろう。それに支配されてはならない。
一番重要なのは、戒律や方便や修習ではなく、悟りそのものにふれることに意味がある。悟れないのならそんなものは、棄て去らなければならない。なぜなら、それらは、悟るためにつくられたある概念に過ぎないのだから。
悟った人にとっては、そのようなものはまったく必要ではなくなる。なぜなら、それが本当に成就した存在であるからだ。
筆者、阿藤大昇は、自らのリクパ、つまり、自らの最高のグルであるサーマンタバトラの心の境地に目覚めたということだけは、ここに明かしておこう。
教えの伝統は、軽々しく書き換えてはいけないし、軽々しく伝えてもいけない。破戒僧ともいうべきものが説く教えを支持することは、サマヤ誡に反する。なぜそれがダメなのかというと、それらはすべて教えの血脈による神聖な伝授の力を持っていないからだ。まずその教えでは真実の悟りに向かうものではない。言い方を変えれば、真実の悟りをもてあそんだ偽りの教えに過ぎないのだ。
教えを説くとき、前のバージョンと自己の見解を明確に区別しておくことが必要だ。伝承や血脈を汚す、つまり、サマヤ誡を犯すことになるからだ。それすらわからずに行為に至っている(宗教行為といえるようなものではない)愚かな教えに従う人々は、サマヤ誡を破ったことによる不慮の災難に常に見まわれていることを知るべきだ。それこそ魔の教えと呼ばれるものだ。
それは一時も安らぐことのない、解脱にふれることさえない魔の教えとなる。魔の教えは必ず破壊されるか、自ら自滅していくだろう。
魔の教えとは、自分から災難を呼びよせながら、それを払うための祈願とその浄化行為を永久に繰り返さなければならない。その行為がすべての苦を生み出す原因となっているのだ。つまり、その教えでは、その苦しみの連鎖を断ち切って輪廻から脱出することはできない。
苦行といったような宗教的リハーサルは、すでに無意味なものであり、そのような宗教的演出すら自性を汚すだけに過ぎないのだ。だから宗教行為は、解脱や悟りの境地とはまったく無関係なものであるのだ。既存の様々な宗教行為は、菩提心の教えが語っている広大な真実の一片すら論じていないことに気がつかなければならない。
残念ながら愚かな教えを抱く者達は、概念の教えに支配されてしまうのだが、最も重要な決定的な違いは、身体や意識に関する自己顕現に問題があるのだ。
そのような人々は、脈管・ルン・ティクレがすべて三毒によって汚されきっているので、清浄なブッダの顕現を見ることも感じることもできないのである。この浄化法を持たない教えは完全にリアリティの本質を見誤っている。つまり、あるがままではないからだ。煩悩を増大して、煩悩の顕現に振り回されているだけに過ぎないのだ。それによって清浄な顕現の教えにすらふれることができないのである。(つまり、人は身口意がすべて煩悩に汚染されおり、これをどうやって浄化に導くかが、今の筆者が頭を抱える最大のテーマである。なぜそれが困難なものであるかと言うとその当人がまったくその事実を認識、自覚していないというこが重大な問題なのだ)
それを克服するのに『ゾクチェンの教え』には、こう書かている。
ゾクチェンの「ミヨワ(不動の境地)」にいたれば、どんな動きにもさまたげられなくなる。カルマの薫習にしたがって動き、二元論的な意識や感情作用を支えているカルマのプラーナ(「レルン(業風)」の運動を含め、どんな動きによっても、妨害されなくなるのである。
『菩提心 金翅鳥タントラ』第8章より
清浄と不浄を識別する思考を捨てることによって、真実を追究しなさい。
なにものも捨てることなくすべてを結ぶ行を、五無間にわたって行いなさい。
微細なる部分も同じものとして区別せず、それを消滅させるのが、最高のサマヤ戒である。
すべての概念を突き抜けた存在を見出すことが究極の自己顕現であり、自らを象徴し、存在意味を満たすものだから。それは誰もが認めるものである。それをブッタ、つまり、根本グルと呼ぼう。
知恵のカッコウ(リクパィ・クジュク)
世界の多様性は、その本性において二元性を越えたものでありながらも、(個体性をもって現象する)その個体性そのものは、心がつくりあげる概念の構成からは自由である。
如実なるものを思考することさえせず、ありのままにまざまざと現われた多様な現象はそれ自身においては絶対的な善なのである。
存在は自ずから成就しているのであるから、努力によって何かをつかみとろうとする心の病気の根を絶って、あらゆるものがそのままで完成状態にある、その中に無努力のままにとどまることが、私の教え。
運命学には二つのカテゴリーがある。
原因の乗
結果の乗
「かくあるもの」とは、概念によって認識しようとすると意識が働く、
社会的・家庭的・個人的・文化的・思想的・宗教的・学術的な要素が概念を構成しようとする。
そのとき、個が全体の中でもっている運命的な多様性を考慮すべきだ。それを否定したり、無視したところにリアリティは存在しない。
個の存在、六大課が示すものは、
個体性(個人)の多様性 ローカル
全体性(世界)の多様性 オール
であり、運命というもの、現象というものを捉えようとすると、
かくあるもの、つまり、概念化してものを認識しようとするとき、二元的な見方で捉えようとするのだが、我々の心は、すべての存在や個の存在をまるごと認識することは所詮不可能だ。ただいえることは、すべての源泉は二元性を越えて存在していることだ。
心が作り上げる概念は、思い込みやロジック、システム、テクノロジー的なすべての思考は、かくのごとく現われたすべての現象から自由である。つまり、その現象を束縛することも、支配することも、操作することも、特定するすることも、区切ることも、破壊することも、絶対不可能である。そして言葉で言い表せるものでもない。検索不可能であり、表記、数量化することはできない。
如実なるものを思考することさえせず、とは、対象化されてしまった概念にさえとらわれることがなければ、概念の再構築は、おこなわれることはない。つまり、それすら、越えたところに裸のリアリティは存在するから無思考でなければ、それを体現することができないのだ。現象と概念はどこまでいっても平行線であり、その関係を切り離したとき、始めて真実がみえてくる。これが心と心の本性の違いである。
まざまざと現われた現象は、あるがままに自己顕現したものは、つまり、目の前や夢やリアルに自覚したもの、或いは自分の未来に関することが現われたとき、
善悪を超えて現われている。善悪の価値判断を超えたところでそれは起こっている。しかし、人は善悪、吉凶、順悖といった形でものごとを見る習慣ができてしまっている。
存在そのものが、すでに自然成就しているので、何かをつかみとろうとする努力は、すでに心の病気であり、本性を見誤った行為であるから、あらゆるものがそのままで完成状態にある、その中に無努力のままとどまることが、私の教えと『リクパィ・クジュク』は説いているのである。
リアリティの本性に従ってリアルに生きることこそ、ゾクチェン・セムの教えの心髄であり、無努力、無思考、あるがままといった行為はすべて人間の本性に本来備わったものであり、それが自然に発露したものであり、それが教えであった、といえよう。(つまり、リアリティの本質に迫るために子平も遁甲も使ってよいのだ)
そのリアリティの本性は、智慧そのものだからその中にとどまることは、もうすでに解脱を果たしている。なぜなら、存在そのものが自覚した智慧とともにあるからだ。これを土台の透明性ともいい、すでに心は常に、心の本性の中で三昧とともに覚醒している。
『リクパィ・クジュク』の訳文は『セム2号』から引用致しました。
個人ゆえの煩悩というのは、誰にも理解できないものであるが、智慧というものは、誰もが理解できるものである。
なぜだろう。煩悩とカルマは、極めてローカル情報であり、その置かれた人でなければ絶対に理解することは不可能であろう。それは言葉や概念によって言い表せたとしても、その苦しみは味わったものしか、体験したことのある人にしか、その本質は理解できない。
激しい突風の中では、すべては剥ぎ取られ、引っぺがされる。メッキは剥げる。つまり、ウソはバレる。なぜなら、本当のリアリティとは、そのようなことを指す言葉であるからだ。何ものもごまかすことはできない。
いかに人間は表面を飾り、内面に欺瞞を抱えて生きていることか。それは現実的な価値基準によって自分も他人すらも狭い壁に押し込んでいるからだ。その見解を破壊できなければ、そんなものは放っておいても自然に破壊されていってしまうだろう。
我こそはブッダの教えを信奉し、中道の教えを、真理をスローガンにして説いている輩は、ブッダの心髄をなにも理解していない。そのような輩の説く教えは、何の意味があるのだろうか。そんなものは誰も必要としていない。
野に咲いているものや、自然に自生しているものに、何らかの作為する行為ことこそ、大きな穢れある行為だ。そのものの本質や本性も自性も、汚していることを自覚しなければならないだろう。
そういったものは人や環境を害するものに成り下がってしまうのだ。それに触れたとたんに極度の汚染のため病を発症する危険性すらある。
一時、目の前から現象が消えたからといって、眼の前から排除したからといって、悟りに至ることはまずない。償わなければならない。その意味がわかるならば、しかし、それすらわかっていないものに、それを求めることは、愚かなことかもしれない。しかし、それは許されるべきことではないので、放置、放任してすむ問題ではない。それを実行しないことは、自らのカルマの負債を何も解消していることにはならない。そのやりかたはまちがっている。なぜなら、何も解決に至っていないからだ。その行為そのものがサマヤ誡をさらに汚している。
それはすべてリアリティの本質を見誤ったからだ。正しい道を示すことができなかった自らの過ちを認めるべきだ。悔い改めるならば、謝罪すべきだ。自分の犯した罪を自覚しなければならないだろう。
そんなものたちが真理を説くことなど不可能なのだ。なぜなら、存在そのものがすべては完成しており、それ以上の完成を求めることがすでにまちがっており、それはすでに病気であるからだ。
そのことを理解せずに、まだ努力している人々に告げなかればならない、愚かであると!いまある、あるがままの存在のありようを認めることがなければ、劫の間進んだとしても、真実の悟りであるクンツサンポの透明な光を見ることは不可能だ。なぜなら、あなたは、すでにブッダと同格であるからだ。それを悟っていないからだ。
求めるものは、そこになく、すでに完成を果たしている。それを見ずに人々は業火を燃やし続けている。それが人間の正体なのだから。
土台の透明性と呼ばれる自己認識がないものは、ただの情報であって、自己に直接的な関連がなければ、智慧とはいえない。ロジックやマニュアルが言わせた言葉と本質から出た言葉はまったく違う。その違いはとても重要だ。
この文章をFさんならびにいまだに理解できていない人々に送る 阿藤 大昇
人間の根源は、三身と五体に集約され、厳密にはこの世に「心」しかない。そしてその心はその三身と五体を顕現されることができる。この三身と五体は、人間の存在そのものであるといえ、三身は、それぞれの存在次元を指し、五体は、存在の構成要素をあらわしている。
人間は常に他に依存して存在している。言い方を変えれば、二元的な見方によって「心」は存在する。
運命学は後者の五体の智慧のあらわれであり、リクパの智慧にあるとき、五大元素は、清浄な智慧に変わる。この五大を五音として捉えた、子平推命は、人間の存在を音、光、光線、つまり、三身と捉え、そのエネルギーが五大と混ざり、個性を生み出すと考えたのである。子平推命は、この五大の力量を計るテクニックをもっており、個人としてあらわれる運命のエネルギーにおける側面を計り占うことを可能としているのだ。
そのとき、仙道が説く、三宝の精・気・神は五大のあらわれの側面であり、この三者は、中国医療の方剤(漢方)・気功・鍼灸に対応している。占いでは、遁甲・六壬・太乙が対応している。
ゆえに、子平漢方術は、子平推命から計量する精神の状態から治療を試みたといえるのだ。そして神の不調和は、鍼灸によって調整し、精神の二つのバランスを取るのが気功治療なのだ。
この精・気・神の三宝は何らかの方法によって変容させることが可能なために仙道では三宝と呼ばれているのである。
これは身体内部や心の問題に有効であるが、人間の外部にあらわれる様々なトラブルには、三式と呼ばれる古代中国の占いよって対応したのである。
社会的な様々なトラブルは、多くは出生ポイントからどの地点を用いたかによって、大きな歪が生じるようである。それを占うのが太乙神数なのである。問題を生じるほとんどの人は太乙における凶方位を突いていることで発生している。反対に社会的に成功している人はまさにこの太乙吉方位を用いているのである。
人事関係は、六壬神課を用いてトラブルを未然に防ぎ、良好な和合時間を用いて、問題を小さくしていくのである。
奇門遁甲は、地の利を預かり、精力や気力こそが、財産、名声、地位を維持できる考えており、それを外部に顕現させることが、奇門遁甲なのである。これはある特定の方位やある形状からその財力や知力の状態を計り、また方位を使用することによってそれを補充していくのである。
このような占いの真実を誰もが顧みることがなかったため現代の占いは秩序を生むどころか、混乱と錯乱を生み出すものに成り下がってしまったのだ。
これは現代における深刻な問題であるともいえよう。運命学は特に原因の乗と結果の乗の二つ側面があり、原因を突きとめる方法とそこからの開放、解脱を説くことが本道であり、誰もが運命学の本道を見失っている。占いは単なる迷信ではなく、どんな占いであれ人間の本質が顕われ出たものに過ぎないのだ。そこに善悪も優劣もない。しかし、智慧の現われで誕生した占いや運命学でなければ、このリアルな現実を乗り越えられない。現実を甘く見てはならない。
そのためには自己顕現を観察するしかない。自分の顕現が智慧による顕現なのか、煩悩から生まれた無明の顕現なのかを明確に区別する必要があるのだ。そこにリアリティの本質が隠されている。それを見出すべきだ。そこに解脱、開放の鍵がある。
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