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2009年6月
概念を超えるには、術を超えるには、何が必要なのか?
自分の限界をまず知ることから始めるしかないだろう。
自分の限界を悟ることがなければ、個人的にも社会的にも成長していくことはないだろう。
一生自分の殻を障壁を自ら作って自らを埋めてしまう。これが二元論の輪廻の姿なのだ。
初めて出合った輝きを、掛け値なしに見た姿を、心にとどめた純粋さをあなたは忘れてしまったのか。
心の本質を、心の本性の扉を開くしかない。あなたは一生その心の扉を幽閉して生きるのか?
それもよかろう。それを選んだのであれば!
煩悩のままに受容と拒絶によって人生を見ている限り、死ぬまでその本性を理解しないであろう。いやバルドの中にあっても音・光・光線といった驚愕の中で転生は繰り返される。あなたに悟るチャンスも機会もない。なぜなら、その手をさしのべたにも拘わらずそれを拒否し続けているのだから。
ひとはこのように悟れない。ゆえに輪廻しているのだ。百人斬りの意味も解からず、原初の白いア字の価値も見出せない人々ばかりの世の中であることが、リアリティの本質を見誤ってる。
本当に苦しんでいる人を救うことができるのは、他でもないあなたなのであって、その自覚すらなければ、大切な人々はあなたからすべて去っていくだろう。もう取り返しはつかない。その事実を知ってからではもう遅い。
無意味な教えに翻弄されながら搾取され布施を強要され自らの財産すら捧げたすべての人々はすべて自分の欲望に支配され翻弄されたのだ。それを自分の心を閉ざして責任を転嫁し、自分は被害者ぶる。それこそがまったく悟りも努力も知恵もない愚かで非常に忌まわしい行為なのだ。それによってどれだけの純粋な意識が傷ついたかという現実を知るべきだ。魂がどれだけ悲鳴をあげているかという声をあなたは聞いたことがあるのか。聞こえまいあなた方の耳には真実の声が、マントラが届いていないのか。
悟りの大切な出会いやチャンスすら自分で破壊し、運命のままに翻弄された人々を誰も顧みることはないだろう。
傲慢な人々はまだ自分の行いに正統性を飾り、今でも人を騙し続ける人々は、悟る機会など永久にないだろう。
なんと(エマホ!)哀れで悲しい人々なのか!
幻身の悟りは、存在が一時的に素粒子化する。それに少なからず、解脱や悟りに近い感覚が得られることがある。しかし、それは真実の悟りではなく、真実に到達するものでもない。
虹の身体を得なければ究極の悟りを得たことにはならないのだ。
素粒子と光子の違いがわかるならば、あなたは悟れるかも知れない。あなた方が保持する幻の教えから離脱することができるかも知れない。そのような人々の誕生とその革新を見届け続けよう。それが私にできる唯一の宗教根絶のための教えなのだから。。。
人間の心の概念構成はもともと全体性をすべて包み込んで認識することはできない。つまり、過去現在未来そして全体性の中にある個の存在がどのように変化して行くのすら認識できない。
つまり、古代中国人がなぜ占いをつくったのか、それは人間の存在認識が如何に限界概念の中にあったかを物語っている。その存在を読み取ろうとして六大課をつくったが、それすら現象のある側面を映し出すに過ぎなかったのである。
その隙間を埋めるには、そのズレを修正する術を人類はまだ本当に把握していない。
なぜなら、どんな論理学も科学もある現象の側面を映し出すだけであってその現象を支配しようとしたとき、もうすでにズレが生じている。つまり、その手立ては現象と平行線を辿っている。それは決して交わることがないだろう。(これが術というものの限界なのだ。故張明澄先生の教えであった五術の限界なのだ。しかし、先生は、南華密教を説いていた。つまり、如来蔵の教えをそしてゾクチェンへ続く教えを説いてくださっていたのだ。筆者はそれによって救われたといっても過言ではない)
人間の思考の限界なのだ。人間がなぜ時間と空間を超えられないかというと思考しているからだ。概念の中に自分を閉じ込めている限り、その二元論的輪廻は果てしなく続く。
自分が概念化してしまった運命的概念は破壊してしまうことができる。今まで認識していた自分というものが、独立して存在していないのだ。
どういう人格で、どういう社会的立場にいるのかということは、すべて概念が構築したものにすぎない。まず、それを破壊することから始めなければならない。
概念構築してしまったが、ゆえに、本質が見えなくなってしまったものを取り戻すには、無知から認識してしまった、本当はないものをあると思い込んでしまったことだ。しかし、それが正しい見解から出たものであればまだよいが、まったく誤った認識活動から作り出された概念は、人間を害するものとなる。だから、その概念を一度壊してしまわなければならない。禅のような自己問答が必要だろう。
例えば、
これから上がるはずものない株を買おうとする人
盲目の恋愛に陥っている人たち
変なお守りグッズによって本当に救われたと思っている人々
変な占い師の誤ったアドバイスで貴重な人生の時間を無駄に費やしてしまった人々
金角銀角のように年中お金に執着し、お金がすべてだと考え、お金のためには人道的行為すら逸脱する、つまり人間ではなくなってしまうのだ。まさしく人間の煩悩が生み出した妖怪といえるだろう。(そもそもお金とは社会的概念が生み出した産物であり、これこそ概念構成として破壊してしまわなければならないものだ。なぜなら、紙切れに一文の価値もないからだ、なぜないものに執着してふやそうとするのか、目の前に現われた確実な財源を確保することの方が大切であり、なぜ何時入るか解からない財の心配をしなければならないのか。完全にサマヤ戒に反している。ガナプシャを行うか奇門遁甲の直符をつかって浄化しなければ、人間関係はますます悪くなっていく。このようにしてものごとは動いているという自覚をもって欲しい)
このような人々は、何も自分の本質を見ていないものたちだと言える。
現象と概念はどこまでも平行線だ。人間はそこにこじつけや人情やわずかな希望を託す。そこに確信がないからだ。そこに神や仏や救世主というものを対象化して自分の誓願を託そうとする。完全にリアリティの本質を見誤った病的な行為だ。それは自分も他者も家庭も地域も社会も国も地球も救うことにはならないのだ。むしろ自分の責任を他に転嫁した行為だ。まったく自己責任の自覚のない行為といえよう。
自分の本性を直接見ることなのだ。何かを媒体に見てはダメなのだ。
それを直観したものには智慧があるということだ。(単純に直観が大事だと言っていることとここで言ってことはまったく異なるのだ)
どんな概念にも汚されない純粋な意識を持っているからこそ、その真実を見ることができるのだ。
それこそが絶対破壊不可能な原初的知性の顕われであると言ってよいだろう。
人間の世界に本当に必要なものは、煩悩を静める教えであって決して煩悩を増大させる教え(筆者が今まで信奉してしまった教え)を説いてはならない。それが筆者、阿藤大昇の確信であり、それは絶対に譲れないものである。意識も概念もすでに倒壊した、もうすでに筆者の概念は死に果て絶えた。しかし、復活した。ゾクチェンの教えが私を蘇えらせてくれた。
なぜなら、ゾクチェン・ニンティクの教えこそが私を目覚めさせてくれた唯一の教えだったのだから。(筆者の過去世すらも蘇えらすこととなったのだ)
阿藤大昇として為すべきことなど、何にももうなかった。すでに完成、成就していた。何を求める必要すらなかった。善を行うことも、法脈を伝えることすらもう意味はない。
それはまったくして発菩提心も慈悲も文字の説く教えであって、単なるスローガンに過ぎなかった。(ただの一度も慈悲を生じたことのないものが慈悲を説くことなど可笑しな話だ)
究極である「菩提心の教え」であっても、必要もない。聞くことのできない。聞くことができたとしても、無用のものであった。
だからこそ埋蔵経典となって大地に埋もれ、誰もが顧みれないものになったのだ。(それを開くにはそれ相応のヴィジョンをもっていなければ路傍の石に過ぎないものなのだ。『クンチェ・ギェルポ(存在を突き動かす純動の王)』を読んでも何の感動も持たないものたちにゾクチェンを説くことは無意味だといえる)
今この時代は、新たな埋蔵経典を解き放つ時代になって来ている。2007年の時同じくしてゾクチェン・ニンティクの教えが世に現われはじめたのだ。それはもう誰も止めることはできない。
その教えはもう血脈を離れて自らの意志で動き始めた。故張明澄先生の五術六大課もそして南華密教も復活しはじめた。
いまや時代は真実の教えを開放しようとしてる。時代は教えの開放へと突き進んでいる。無意味な教えを抱く必要はない。新しい時代を切り開く教えが今まさに誕生しようとしているのだ。
筆者の怒りは、宗教根絶するための透明な智慧と虹の身体へと変容した。その教えを見縊ってはならない。ただ人を狂わせた教えを説いたものにその教えは凶器と化し、必ずその教えを破壊するだろう。(必ずやカルマの負債を支払ってもらう。それが因果の道理であるからだ)
その教えは世に蔓延る無意味な占いの教えや外道の教えを破壊していくだろう。人類を目覚めさせるために。地球の次元が上がるのを待っていてはダメだ。自らの中に次元はあり、それを他に求めてはならない。
同じ過ちを犯してはならない。教義に支配されていてはダメだ。あらゆる限界概念から開放されなければ、真実の自分は見えて来ない。あるがままの自分を見出すということが、如何に難しいか、全体性の中にある固体性を見出すことは、非常に難しい。なぜなら、みな外を他を見て、自分を判断しているからだ。全体の中に答えはない。また固体の中にも答えはない。なぜなら、その答えは、それすら越えたところにあるのだから。
偽りの宗教家や偽りの宗教行為はすべて石を金と言う詐欺師(オレオレサギ)と同じ現象だということを理解しなければならない。その根本が慈悲から派生した行為だとしても無明(マリクパ)に覆われたものに過ぎない。なぜなら、その被害にあったものは、何の救いも慈悲もないからだ。それらの行いの結果は、人の怒りと憎しみを増大させるだけだ。何の責任も何の使命感ももたない人々が起こす智慧のない行為と呼ぶことができる。(自己責任と言いながら何の責任も取っていない。それはただの責任逃れだ。因果の法則はその行為を許す道理がない。天は必ずそれを裁くはずだ。人を危め傷つけた行為を天は絶対に見過ごさないのだ)
自分のやっていることがどういう結果を生むのかも知らずに行為している人々は、どんな人望や地位をもとうが目隠しをして戦闘機を操縦しているようなものだ。
リアリティの本質に到達した人々は、その真実を顕わにするだろう。だから、そんな宗教などこの社会にまったく必要などないのだ。
本当に見つめなければならないのは、自らの心、つまり、心の彼方にある自らの菩提心に目覚めることであって、それを他に求める、つまり、自分以外に求めてはならないのだ。
煩悩の受容と拒絶によって生きてはならない。それは何も解決に至らないからだ。
煩悩を増大させ悪しきカルマを積むだけに終わるからだ。
煩悩と智慧は交叉して現われる。その智慧を見出せない限り、人は絶対に悟りに至ることはないだろう。
筆者は六大課における広範囲な考察をおこなった。そしてその真実を得た。しかし、それを誰も評価できる人がおられなかった。自分が喰えることが目的ではなく、人を悟らせることが目的なのだから。それが筆者の「文火温玉」の運命であり、それを『子平洩天機』は説いていたのだ。
人間の存在は、ブッタが究明した、
煩悩障
所知障
のふたつに分けられるだろう。
煩悩障は、人間の原始の欲望に根ざしたものであり、衣食住や煩悩のままに生きる、つまり、欲望を対象化した貪りによる性風俗や飲食関係、売買の商売や住宅関係を職業にしている方々に見受けられる煩悩である。
これに対して、所知障は、知識や概念といった文化的事業に関連した、宗教、学問、芸術、政治や技術、技芸といった分野の人々が陥る煩悩といえるだろう。
その中で詐欺的行為をおこなうのは、宗教や学問、政治、財界を問わず、ボッタクリやほうがいな値段をとったり、合法的におこなう商売を含めて、それらは命によって突き動かされていると考えてよいだろう。しかし、これが犯罪にならなければそれでよしとしているのが社会的見解である。本当は人間の欲望を増大させ詐欺的行為をおこなって搾取しているのが社会の構造なのである。
子平推命では、地位や常識がある人々が犯罪に陥る場合と、そういった概念すら持たずに罪を犯している人々の命運を明らかにしている。この二つの煩悩は人相にも現われるのである。
ひとはなぜその限られた制約の中で犯罪を犯してしまうのだろうか。故意に行う人もいるし、まったく気がつない内に犯罪に至っている場合がある。
しかし、その根本は煩悩によって突き動かされているのである。煩悩によって気が散らされ、狂ってしまっているのである。煩悩が増大することで、精気神のエネルギーバランスさえ崩してしまっているのだ。
一番問題となるのは、その煩悩を対象化してそこに怒りと憎しみを常に増大することだ。執着も同じような結果を生み出す。上手く行かないことや自分に欠けているものに強く執着して、必死でそれを掴み取ろうとする。ものに異常に執着するのも強度の貪りであるといえる。それはもう病的な行為であるといえよう。
悟りとは、ただ勉強したり研究したり概念化することではない。そのような習慣が強い人ほど、悟りにほど遠いといえよう。定形的な見解を持つ宗教というような行為を行うものこそ、悟りから完全に離れている。
すべての概念や教えから離脱し、真実の教えに目覚めるしかない。
つまり、欲をかくなと言っているあなたこそ強欲な存在なのだ。これは教え諭すことがいかに難しいかということを物語っている。
ひとが生きる現実は、リアリティの本質を見誤った、カルマから生じる心に映しだされた幻影を実体のあるものだと対象化し、それを支配しようとしたときから人間の苦悩、つまり、煩悩に苦しめられることになる。
智慧に目覚めたひとは、すべての現象はすべて悟りにつながる。なぜなら、そのわけが、その現象がおきる原因を写しだせることができるからだ。子平も遁甲も風水も等しくそれを見届けた人々が、その智慧によって形にしたものなのだ。だからそれを理屈やロジックだけで読み解こうとする行為は完全に間違っている。
物事をわかりやすくすることは、単純にすることではないのだ。知恵に換算することなのだ。知恵あるひとは、必ずそれに大切な意味を見出すはずだ。それを直感できないものは、まだ概念の皮膜によって世の中を錯誤して見ているものたちなのだ。
知恵のないものに、無知のものに、いくら法(ダルマ)を説いても理解できないのは、自分が作り上げた価値観や概念、つまり、鳥かごを壊せないでいるからだ。一度概念の死を、精神の死を経験してみなければ、真実は見えてこない。
自らを本当に棄てることができないでいる。つまり、欲望に支配されているからなのだ。それを宗教が説く、苦行によっても、脅しによっても(サマヤ誡、戒律、法律の類)、洗礼的な浄化儀式によっても、それを目覚めさせることはできない。次元が違うのだ。心の本質に直接踏み込んでいける知恵の輝きこそが本当に人々を目覚めさせることができるのである。
智慧の輝きこそあらゆる戯論や概念の皮膜を剥ぎ取ることができる。
幻身は光明によって解脱させることができる。
妄念は自性によって止滅させることができる。
自他共に完全に現象を支配することができる。
これがゾクチェンの修行によって得られる智慧の成果なのである。
巧みな方便によっても悟ることは不可能だし、そもそも悟らせようなどとする行為や我々は天使や聖者だと本当に想っている人々こそなにも悟っていない煩悩のままに生きているものたちだといえる。(誰でもサギ師にはなれるが、本当のグル(導師)になることは非常に難しいのだ)
単なる魔術や魔法に惑わされてはならない。うそは必ずバレる。なにも悟っていない宗教家がわれは教皇であるような振る舞いをしているが、それは本当の教皇ではない。本当の教皇は宗教を否定するはずなのだから。
ひとが悟るには、個人の運命が多様なように悟り方も多様だ。
概念によって悟る人
象徴によって悟る人
本質を知って悟る人
しかし、八乗の教えでは今世においてブッタと同格にはなれない。死後バルドの中で解脱する可能性はあるとしても、誰もそれを保証できない。
空海は、即身成仏を説いたが、彼のさとりはゾクチェンの見解では、残念ながら幻身の悟りの段階に過ぎなかったと考えられる。
自らが解脱するしかないのだ。その道を本当に説くものこそ根本グルといえよう。
究極の悟りを目指すべきであり、その悟りの中で智慧と覚醒とともに生きるべきだ。
人間が死に至ると肉体はなくなっても意識が目覚める。死後最高49日間は意生身、つまりバルドの世界を生きることになる。そのとき肉体はなくなっても人間であった意識習慣が強かったので意識は日常と同じで家族や知人とコンタクトすることができる。しかし、肉体がないので、その相手には自分の存在を認識することはできない。意識を読みと取るビジョンをもったものはその存在とコンタクト可能である。しかし、再生のバルドでは死後三日後に意識は目を覚まし、それから七日ごとに意識の死を繰り返しながら、二週間後には以前の身体から次の転生の身体へと意識が変容していくとされている。だから意識が執着している二週間前後の期間にだけ知人とのコンタクトが可能なのである。
『叡智の鏡』には死後その人を救うにはどうしたらよいかが書かれている。
シトの修行によって、死者を助ける方法を知ることは、修行者の誰にとっても重要な意味がある。シトと金剛サッタの修行は、死者を助けるためにもっとも大切な方法だ。だがそれ以外にもできることはたくさんある。
死に臨んでいる人とつきあうときには、まずどういう人格なのか、理解する必要がある。知り合いで、好きで、助けたと思っても、本人が仏教に興味をもったことがなく、一度も道を信じたことがなければ、死が訪れたときにも、やはり生きていたときと同じようにして、すなわち仏教に何の関心をもたないまま、死ぬのである。
方便に巧みで、高い悟りを得た修行者は、一枚の紙を準備し、そこに「ヌリ」と書く。・・・紙とそこに書かれた文字は、死者の意識をつなぎとめる支えのようなものだ。というのも、その意識には、もはや肉体がないからだ。そういう依り代がなければ、死者の意識に「ここにとどまりなさい」と言いたくても、意識がどこにあるかわからない。どのようにコミュニケーションしたらよいかもわからない。依り代を作れば、死者を象徴していることがわかる。それに向かって話しかけ、会話すればよいのである。
四十九日目は、「ラムテン」と呼ばれる。ラムテンは、道をはっきり示す、という意味である。多かれすくなかれ、四十九日が、再生のバルドのふつうの長さと考えられているのである。そのため、四十九日には、なるべくたくさんの導師や修行者を招いて、できるかぎりの行をしてもらうのである。以上が、ふつう死者のためになされることだ。
このように死者も生者もひとしく仏教にまったく興味のなかった人々を救うことはできない。
人間はこころ(セム)がすべてだと言ったが、こころが救われなければ、何の意味もない。絆が必要なのだ。意識の依り代が必要であり、帰すべき道をはっきりと示すことが、本当のグルなのである。もしその道をはっきりと示す人間やものがあったとしたらその存在こそブッタと呼ぶに等しいものだ。
現代の一般に行われている先祖供養や死者の供養(葬式)は、まったく死者の意識に触れえるものではないものだということをはっきりと認識しなければならないだろう。
そのような儀式によって人の心を救うことにはならない。まさに慰霊でしかない。
勝負は死後49日間にどのように行動するかにかかっている。
まったく意味の無い先祖供養や死者の供養を行ってはならない。(功徳を積むどころか悪業を積むことになる)
無意味な行為は、人を迷わし、悟りから遠ざける。人は不信と欺瞞に陥るだけだ。
筆者の行う「百人斬り」も「死者」を救う方法も根本はまったく同じものであったのだ。
六大課は生者を救い、シトの修行は死者を救う、どちらも行くべき本当の道を指し示すことなのである。
道を見出すことに意味がある。それは悟りから生じるのである。自らの透明で清浄な土台を悟ったとき、行くべき道がはっきりと見えてくるはずだ。
人間が生きるモードに二種類のモードがあるようだ。
ひとつは、煩悩を思いのまま発散させて生きる人々
もうひとつは、煩悩を一切出さずに智慧に換算して生きている人々
煩悩のままに生きる人々は、すべてを汚染していく、智慧で生きている人々にさえ、汚染していく。その最初の顕現は、脈管・ルン・ティクレの汚染だ。みんな息が詰まって、ぐずぐずする。喉がいがらっぽくなる。しかし、こんなのはまだ序の口で、電話で頭が痛くなる場合もある。アレルギーのある人は、その煩悩汚染で痒みが発生してとまらなくなる。お腹を壊すこともある。しかし、それだけではすまないのだが。(筆者のイベントの「百人斬り」をやったあとこの煩悩汚染で一週間声がでなくなってしまったのです、被害妄想だと思われるかも知れませんが、そいった現象はそれを体験したものにしかわからないようです。これが本当の煩悩から派生した現象であり、それを知ることができるのもひとつの智慧と言えるでしょう)
煩悩汚染の当人は、やはり自分の欲望のままに生きていらっしゃる方々ばかりだった。汚染程度の低い方々は、タバコやビールを飲むことである程度開放することができるが、うさばらしてタバコや酒を飲んでいる人々の周りは汚染でいっぱいになっていることを自覚しなければならないだろう。その極みが社会的な感染症や伝染病に発展する。そして個人ではエネルギーの不調和によってほとんど人が癌などの難病を発症している。またエネルギーの無秩序は家庭や人間関係においても問題を発生する。配偶者や家族を失う人にもエネルギーの放縦がみられる。そのみさかいのないエネルギーをコントロールしなかったことがその原因といえる。しかし、当の本人がそれすら認識していないのが問題の根本にある。これは深刻な現代の社会問題でもあるのだ。人間の吐く息がすでに周りを煩悩汚染しきっているという現実を知って欲しいし、その被害にあっている人々がいること認識して欲しい。(そいった現象につけこんで霊感商法をおこなっている人々もいるので注意されたし)
もし家族や知人にそういった現象が起きているようだったら、明らかに煩悩汚染による被害者だとみてよいだろう。
では、そのモードをどうやったら変えることができるのか。
仏教は、衆生の煩悩を鎮めるためにできた教えだといってよいかも知れない。
その方法には、
放棄の道
変化の道
開放の道
があるが、自然解脱の段階に至らなければ、煩悩を完全浄化することはできない。これはテクチューの段階で実現可能であり、さらに他者の煩悩すら浄化する段階に至るには、トゥーゲルの四顕現の段階にまで入っていないと無理がある。
このテクチューとトゥーゲルの修行を行うには三昧に熟知している必要がある。つまり、仏教が説く究極の到達点である三昧を経験するしかない。それには、師からの伝授が必要だ。
『ゾクチェンの教え』には三昧について次のように述べている。
「<真如>の境地の悟りは伝授をつうじて伝えられ、三昧によって深められる。師の役割は黄金を磨くための鉱物のようなものだ」。
たくさんの人々が自殺し、癌を発症しております。今すぐでも煩悩に目覚めてください。大切な人々がみな煩悩によって苦しんでいる現状を知ってください。
最も汚染度の高い職業に従事されている方々へ煩悩の災難には、自らの煩悩を自覚し煩悩を浄化することから始めようではありませんか。
阿藤 大昇
我々は概念の皮膜を透して世の中を見ている限り、人生に何も変化を起こすことは出来ないだろう。
その概念の皮膜を透して、
放棄の道
変容の道
開放の道
をどんなに努力して修行しても、何の放棄も変容も開放も起きることはないだろう。
なぜなら、概念の皮膜に写った映像をどんなに放棄しようが、変容しようが、開放しようが、その皮膜を透して世の中をみているということ自体が人間を狭い限界へと閉じ込めてしまっているのだ。
あるひとは、煩悩でいう貪りの皮膜で人生を見ている。
あるひとは、煩悩でいう怒りの皮膜で人生を見ている。
ある人は、煩悩でいう無知の皮膜で人生を見ている。
それらの行為は、どんなに崇高で、大義名分が立ったとしても、すべてが限界に行き着き自己崩壊の道を歩む結果となる。
しかし、またあるひとは、智慧でいう明晰な何の媒介をすることなしに人生をみている。
またある人は、智慧でいう叡智の鏡(六大課)でもって人生を見ている。
彼らの行為は、あらゆる限界を超えて行為しているので、何ものもどんな状況であろうが、そのひとの行う行為を妨害することは不可能だ。むしろ何の行為も為さない内にすべては成就している。
成果を追い求めようとしないからだ。成果を追い求めることや結果を求めることは煩悩を発端とした行為であるからだ。それを求めても劫に渡って輪廻を繰り返すだけだ。
解脱の成果や結果を求めることも煩悩となってしまうのだ。
レッドクリフとは、人間の限界を超えて生き残ることに意味があり、自らの保身だけのレッドクリフでは何の意味も無いことを自覚しなければならないだろう。
レッドクリフとして戦えるひとは、概念の皮膜を引き裂いた、純粋で透明な意識をもった人々であり、そういった人材でなければ、同志となることはできないのだ。
レッドクリフに挑む人々に告げる煩悩ではない智慧ある行為こそ運命を変え世を本当に良い意味で変えることができる。そうでなければ個人的成長も世界的成長も有り得ないだろう。まして人を変え世を変えることなど出来ようはずはない。
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